早稲田大学の大学院が、教育研究について質を問われている。「日本人女性初のノーベル賞」と騒がれていた女性が、一転して博士号の返上という事態になりかけている。この先の展開は読めないが、メディアや世間一般の論調に対して、研究者として主張しておきたいことがある。
タイトルにあるように、他人が書いた論文を「複写して貼り付けること」(コピーペースト)そのものが悪くわけではないということである。わたしたち研究者の業績や研究成果は、ほぼ7~8割ほどは、先人の調査・実験や理論のうえに「乗っかって」いる。純粋な貢献などは、せいぜい20~30%程度である。
だから、論文のはじめの20%が「先行研究のレビュー」で占められるのは、ごく普通のことである。わたしも研究者としてはそのように論文を書いている。いまでもそうした姿勢で仕事をしている。「引用部分(コピー)が20%もあるでないか!」という指摘や非難はそもそもがおかしいのである。
ワープロが登場する前の研究者でも、先人たちの論文を複製(コピー)していたことには変わりがない。効率的な複写手段を便利な武器として持っていなかっただけである。たしかに、「写経」をするような具合で効率はかなり悪かった。
ただし、当時の若手研究者は、引用した部分をきちんと明示するように指導されていた。それは、ドクター課程に入学してきた学生が最初に教わる「お作法」だったのである。大学院の教員としては、論文の読み方と引用の仕方を伝授することが最初の仕事だった。
誤解を恐れずに言えば、本質的に深刻な問題は、コピーペーストという行為にあるわけではない。自分の研究が、従来からある研究のどの位置にあって、誰の研究成果を踏まえた上での貢献なのか。そのことをきちんと「引用」していないことが問題なのである。大学院生は、「引用の作法」を教えられないとそれが理解できないだろう。
したがって、そうした教育ができていない大学教員にこそ責任がある。研究組織の劣化が問題なのである。論文を丁寧に読みこんでいれば、コピペを叱る必要などはない。院生と一緒にリサーチの作業をしているのだから、実験の細かな背景も分かるはずだ。
「指導しなければならない学生がたくさんいて、そんな時間などはないから、”レビューの部分”は読まないよね」という言い訳をする教員がいる。それはおかしいことだ。論文全体の構成を組み立てるところから指導していれば、そのようなことは起こりえないはずである。
「どの論文のどこの部分を引用をしているのか」は、自分たちの研究成果の基礎部分である。そのベースの部分を正確に明示して引用していないのは、はじめから「論文の組み立てがいい加減だった」といわれても、申し開きはできない。
結論である。メディアが騒いでいるようには、わたしは「コピペ文化」が問題だと思わない。それは結果であって、研究そのものがいい加減であることのほうがはるかに致命的だと考える。結局は、指導者の側に責任があるのだ。大学院生に罪はない。他人の研究を引用する作法を、授業で教えていない教員のほうが悪いのである。
日本の研究者が置かれている劣悪な環境から脱却するためには、質の良い教員の待遇を改善することである。とにかく、一生懸命に学生を指導している教育研究者を守らないことには、日本の研究の水準は落ちていく一方である。哀しいことだが、グローバルにはとても戦える状況にない。