アシスタントの青木恭子と大学院生のレポートを読んでいる。このところ、授業でプレゼンテーションとレポートを同時に提出してもらっているのだが、そこで不思議な現象に遭遇している。素晴らしいプレゼンで、かつパワポも超S級(+A)の学生のレポートが、まったくだめなことが多いのだ。かなりのショックである。
その理由は、絵図や表で表現する手法(パワポ)と、論理的思考との違いにあるのではないかというのが、わたしたち(小川+青木)の結論である。
パワポの世界は、二次元である。目に見える対象は具象である。だから、プレゼンに当たって、対象を抽象化する手続きを省くことができる。コンセプト(概念)の定義が、あいまいなままでも、その場の印象で補完ができるのである。
どうかすると、論理的に話しているつもりでも、論理展開に必要な抽象化が不完全なままで、皆が納得したつもりになるのだ。
それとは対照的に、論文やレポートを書く作業は、一次元的(リニアー)である。換言すると、文章を書くという作業は、点と点をつないで立体的な世界を創造することである。歴史書や推理小説の記述スタイルに代表されるように、書き手は一時にひとつのこと(文字)しか記述できない。
その場合は、複数の事象や登場人物を、時間軸(因果律の軸)に配置する。そして、因果関係を文字テキストで表現していく。書くということのために準備されている次元は、つねに一次元なのだ。一本の糸の上(テキスト)を、一次元の筆で記号(文字)を埋めていく作業になる。
しかも、語りかける相手はその場にいない。作家の故開高健が言っていた。書くという行為は、孤独な作業である、と。
もし、当初の資料がパワポ(絵図)で準備されているとすれば、そこでは一旦、二次元を一次元に落とし込む作業が必要になる。しかも、手作業である。
二次元の絵で表現された具体的な対象(具象)を概念化(抽象化)する。プレゼンで提示された起承転結を、論理的な展開に落とし込むのだ。しかも、それを連続する文字列で表すのである。まったく別の忍耐を要求される。今の子たちは、これができない。
大学院生が、レポートや論文でつまずくのは、二次元世界を一次元に翻訳することができないからだと察する。もちろん、素晴らしいパワポが作成できて、なおかつ立派な論文を提出してくる学生もいないわけではない。だから、全員の翻訳能力が弱いということを言っているわけではない。
わたしが懸念するのは、そうした「翻訳作業」について来れない院生が増えてきているということである。対照的に、学部生のほうが作文(レポート)が上手なのである。
この違いは、いったいどこにあるのだろうか?もしかすると、勉強している風に見えて、院生がたくさんの専門書(論理的な文章)を読んでいないからなのではないだろうか?
ネット検索やパワポ作成に時間を費やしている間に、表層をなぞるだけの浅い思考法しか鍛えられないのでは。これが、本日の結論である。
そういえば、「ネットバカ」という本が昨年売れていた。「パワポバカ」にならないように、一次元で物事を深く考えることを院生たちには希望する。深く考えるには、ネットを切断して、ひとり静かな時間を作ることが必要である。