いま、わが家のテレビのスイッチをONにしてみた。総務省からのお知らせで、「本日12時で、アナログ放送は終了しました」と出た。「めざまし」をいつも見ていたので、フジテレビである。「今後は、デジタル放送をお楽しみください」とある。夕方には、画面は「砂嵐」になるらしい。
わたしもかみさんも、ほとんどテレビを見ない。忙しいからではなく、テレビそのものを必要としないからである。
わたしは、しごとの関係で、新商品のコマーシャルが気になるので、そのために、チャンネルをつけているようなものだった。いちおうはマーケティングの教授である。この仕事でもなければ、テレビは必要としない。
このごろは、取っている新聞(日経と毎日)も読まなくなった。実は、新聞はほとんど「店晒し状態」になっている。これには、別の事情がある。マスメディアの情報が信用できないだ(これを「中国現象」と呼ぶ)。
そのなかでも、テレビの重要性は低くなった。ドラマやバラエティ番組、さらには、(見る)スポーツにも興味を失った。基本的に、つまらないのである。
基本的に、日本の報道番組は偏向している。必要な情報が報道されていない。コメンテーターの質がだんだん落ちている。素人のタレントの意見を聞いても、何の足しにもならない。
そんなわけで、このままいくと、わが家のアナログテレビは、そのままに置物になるかもしれない。捨てるわけにもいかないだろうから、ニュータウンの大型ごみで引き取ってもらうことになるのだろうか?よくわからない。
考えてみれば、米国留学から帰って半年間、わが家にはテレビがなかった。もともと日本の事情がよくわからないままに帰国したので、しばらくは特段の不便も感じなかった。
しかし、あるとき、ちいさな娘が幼稚園の話題についていけない、と言い始めた。それをきっかけに、新しいテレビを購入した。しかし、いちばん小さなテレビだった。こわれたときにようやく次のモデルを買い求めた。展開的な低関与購買である。
かつてわたしがテレビを必要としたのは、ビデオで映画をみるためだった。いまごろになって、そのことに気が付いた。バカな話だが、DVDの映画ならば、このPCでも視聴できる。テレビそのものは必要がない。
世間では、デジタル対応ができないので、忘れた家庭は大いに騒いでいる。チューナーも売り切れたらしい。それでも、この大騒ぎは、ほぼ一日で終わるだろう。本日の騒ぎは、「うっかりものたち」のから騒ぎだからだ。わたしのように、確信犯はあたふたとはしない。
これからゆるりと、テレビが本当に私たちの生活に必要なガジェット(おもちゃ道具)なのかどうかを考えてみる。必要ならば、その理由が明確ならば、大型のものを購入することにします。
この際、国民の全員がテレビを捨てたら、ずいぶんと節電になるのではないだろうか?新聞や雑誌も必要最小限にすれば、物流コストも下がる。紙を運ぶガソリンも必要なくなる。
マスメディアが選別されるべきときに、なんで、家電量販店やテレビ通販会社の広告が垂れ流しされて、商売が繁盛するのだろうか?