新卒の就職率が60%を切る水準まで、落ち込んでいる。その理由を、一般には、不景気と学生たちの資質(草食系男子が増えた)に求める傾向がある。その見解は、根本的に間違っているのではないだろうか? 今夜のブログは、雇用に関する社会的な通念に対する疑問である。
はじめに、大学教員の定年を例に挙げる。あるとき、わたしは、おそろしいことに気がついた。いまから10年ほど前のことである。
東京大学や大阪大学など旧国立大で、教授の定年が60歳から65歳に延長されると聞いた時である。わたしの経済学部時代の教授たちのほとんどは、60歳のすこし前になると、都内の有力私立大学に移動していった。ある種の「天下り行為」である。
東大の経済学部についていえば、代表的な「植民地」は、青山学院大学、学習院大学、武蔵大学、東京経済大学、明治学院大学などであった。院生だったので、人数などを正確に把握してはいない。有力な国立大学でも、それぞれの植民地を抱えていることは、感覚的にわかっていた。
例外は、早大と慶大だった。大学院(少なくとも数の上では)が充実していたので、自力で研究者を養成していたからであろう。しかし、わたしが法政大学に移ったころには、かつての一ツ橋や東大の植民地だった、明治や法政や立教でも、東大の教員を受け入れなくなっていた。
だから、この先は、東大の先生は60歳を過ぎたら、いったいどうなってしまうのだろうと考えていた。わたしは、「定年が70歳(延長しないと65歳)だから、法政大に就職してよかった!」と思ったものである。ところが、50歳で学部長になってみて、手前勝手なラッキーな思い込みは、まちがっていることに気がついた。
前述のように、東大時代の恩師たちの定年後の就職先を心配し始めた10年後に、国立大学でも、65歳(東大のみ63歳だった?)まで、教員の定年が延長になった。その結果を、わたしはやや意地悪く眺めていた。「植民地支配」と「天下り」がなくなった反面、有力国立大学でも、実力不足の教員が生涯雇用を保障されることになってしまった、のだと。
当時もいまも、いったん教授になってしまえば、30年間で、学術論文を1本も、研究書を一冊も世の中に問わずとも、かつては東大教授のブランドだけで、60歳の後でも、私立大学の教授ポストが70歳まで約束されていた。植民地を失った東大のような国立大学にとって、定年延長は、人事の停滞を意味していた。
一般企業と同様に、大学教員の人事などは、「失敗の見本市」のようなものである。若くて力のある助教授(いまの助教や准教授)を採用したと思いきや、旬の短い研究者(「夭折」とわたしは呼んでいる)は、掃いて捨てるほどたくさんいる。山ほどいる実力不足の教授会メンバーでも、在任期間が短ければ(かつての東大のように、58歳とか60歳までならば)、また若くて「将来性のあるかもしれない」研究者がその後釜として、どうにか採用できた。
しかし、65歳とか68歳定年では、人事の失敗は決定的になる。若手から中堅になるとき、じゅうぶんな業績を上がられなかった研究者は、たいていは学内政治に走る。あるいは、何もしないで教育をさぼるか、他人の足を引っ張るだけである。
いまの大学の雇用制度(中間チェックなしの生涯雇用保障)では、「人事に関するグレシャムの法則」(悪い人材が良い人材を駆逐してしまい、レベルの低いひどい教員ばかりが残る)から逃れる術はない。なぜならば、業績評価や授業評価は、たとえあったとしても、それは給与や雇用に連動していないからである。
大学教員の職場環境を見て、「愚者の楽園」と評した先輩教授がいた。同意であった。その元教授は、むかしは賢者だったが、自らが愚者になり下がってしまった。定年後に年金を受け取り始めてまもなく、ごく最近になってなくなった。
わたしは、亡くなった先輩教授に、究極の責任はないと思っている。悪いのは、大学の人事昇格制度である。元教授が中堅の研究者だったころ、もし研究論文がかけないときに、放逐されるか減俸されるかのシステムがあれば、よかっただろう。
彼は、もともと良い研究者だった。だから、生涯に一冊も単行本を書かなかった研究者だった、などと後々に悪口を言われなくて済んだはずである。気の毒だった。
話がずれてしまった。言いたいことは、そうした「温情的な人事雇用制度」があるために、わが国の研究者の能力が劣化していることである。そして、大学教育の質が、とめどなく落ちて行っていることを指摘したいのである。
世間で言われているのは、若者たちが「ゆとり教育」で思考のレベルが落ちたという指摘である。一理はあるが、それが本質ではない。国際的に危機的と思われるのは、大学教員の頭脳と研究能力である。
このような制度では、とてもではないが、国際競争に勝てそうにない。英語で授業をやるやらない以前の問題である。
その根底には、(少なくとも、東京の大手私立大学に関して言えば)教員の待遇問題が絡んでいる。パンドラの箱を開けてしまう。同僚の教員たちには申し訳ないが、率直に世間に事実を公表してしまうことにする。
一般企業であれば、わたしのような60歳の男性社員は、役員でもなければ自然に定年を迎える。役員ではあっても、最高経営者にでもならなかれば、3年先くらいが先のゴールになる。最低限、60歳に定年で再雇用されたとしても、給与は半分や7掛けになる。それが当り前である。その後に、若い人が雇えるからである。
しかし、わたしたちはと言えば、その先の70歳まで、基本の給与水準が下がらないままでいられる(上がりはしないが、お笑いである)。もちろん、大学院を出るまでに、最短で5年、ドクター論文の完成まで、遅い場合は8年ほどを費やしている。だから、短い間の高給取りくらいは、当然だという議論は成り立たないわけではない。
いや、百歩譲ってもよい。しかし、人間も65歳~70歳ともなれば、(ストレスが相対的に低いからだろう)平均寿命が長いといわれる大学教員でも、心身ともに痛みが出てくる。40歳のばりばりの教員とは、パフォーマンスが明らかに異なる。
以下は、個人的な懺悔を吐露した記録である。学部長時代に、わたしは悪しき事例に、何度も遭遇した。わたし自身も、それを(大学では)当然のこととして放置してきた。恥ずかしいことだが、自身が関与した具体例をあげる。
あるとき、定年間際の教員(68歳)が病気で倒れた。復帰はできないことは、医者の診断でわかっていた。もう授業はできない。成績の採点もできない。しかし、制度的にはあと一年、教授職にとどまることができる。前年に、定年は延長されている。しかし、更新は一年ごとである。
実質的に授業ができない。二度と本人は教室には立てない。だから、定年を再延長はせずに、学部長としては、「その年かぎりで(ご本人に)引退を勧告すべきか」となやんだ。しかし、教授会メンバーの意見は異なっていた。温情的な措置により、形式的には定年を延長する道を選ぶべし、だった。
このままでは、若い先生が倒れた先生の授業を負担をすることになる。新規の雇用ができないからである。実際にそうなってしまった。そのことがわかってはいたが、学部内に深刻な対立を抱えていた若い学部長は、大勢には逆らえなかった。
言い訳をひとつだけ。わたしは非情な人間ではない。たとえ、彼がその時に定年を迎えたとしても、生活に困ることはなかった。3階建ての手厚い年金は、その年にも支払われていた。多額の退職金も用意できることがわかっていた。だから、周囲の唯一の言い方は、「彼から教授の職を奪ってしまえば、生きがいを失わせてしまう。早死にしてしまう」だった。
正直、この人たちのセンスは、どこか世間からずれているとも思った。基本的に、「きちんとした教育を受けるために、学生は大学に来ている。わたしたちは、質の良いまっとうな教育サービスを提供する義務と責任がある」。
しかし、犬の遠吠えだった。自分たちの仲間(の権利)を(過剰に)守るロジックを、消費者感覚をもって、わたしは説得することができなかった。仕事に対する責任を優先するならば、家族もわたしたちも、潔よく引退と交代を伝えるべきだった。
大学教員一般の雇用に話を戻す。このようなことは、いまでも頻繁に起きている。だから、せめて60歳を超えるころからは、一般世間と同様に、大学の教員も、再雇用制度を適用して、給与などは7割程度に減額すべきである。ただし、負担などは楽にしてあげればよのだ。ならば、上記のような68歳の悲劇は起こらないだろう。
大学の先生から、これまでの雇用機会を奪うわけではない。雇用は継続しながら、むしろ、(賃金の削減分を)若い人たちに、新たな雇用機会を提供するのである。若い教員の数が増えるので、マスプロ私学のアキレス腱だった、学生一人あたりの教育密度も高くなる。実に、めでたし、めでたし、なのである。
これまでの話は、大手私立大学だけの話ではない。もしかすると、わたしたちの上の世代(団塊世代)が、若者たちの雇用機会を奪っているのではないか、と思うからである。たとえば、大学教授たちのすべてが、70歳まで働いてしまう必要など、本当にあるのだろうか?パートタイマー教授でも、わたしはよろしいのではないか?と思う。
一般の企業社会でも、60歳台がビジネス(関連会社への出向・再就職)や公的な仕事(天下り官僚)の中心から消えることで、すくなくとも正規の仕事を若手に譲ることができれば、若者の雇用問題は、制度として構造的に解決できるのではないか?
事実はわからないが、わたしの同級生たち(1948年~1951年生まれ)は、少なくとも、大学時代の友人たちに関して言えば、まだ引退したケースがわずかひとりである。年間180万人も生まれた世代である。
部分的にわれわれの同級生たちが引退をしてくれれば、若者の雇用にはかなりプラスに作用するはずである。現実は、ちがっているのだろうか?もしかすると、、、若者の雇用を生み出す原資は、団塊世代の引退を早めることかもしれない。彼らの大多数は、かなりの金も持っている。