昨日、情報公開に関する民主党議員の考え方について、象徴的な事件が起こった。枝野幸男官房長官(新任)が、午前中の記者会見で、官房機密費の扱いについて、「報償費の性格から、すべての公表は難しいのではないか」。つまり、全面公開は困難だとする考えを示したのである。
民主党のマニュフェストは、つぎつぎに破られていく。枝野長官の発言も、「情報公開」の根本に関係しているので、かなり厄介な議論を巻き起こすことになるだろう。わたしは、枝野発言は、当たり前のことだと思うが、これまでの民主党は、まったく逆の主張をしてきた。
民主党議員も、ようやく世間の常識を理解できるようになった。大人の発言をするになったと思うのだが、「政治とカネ」の問題なども、突き詰めて考えると、こうした情報公開(知る権利)や資源配分(予算編成や税負担)の問題に突き当たってしまう。
ゴシップ記事を載せることは、メディアの利益にはかなっている。消費者の知る権利を担保するだろう。しかし、ターゲットとなるタレントや人気議員にとっては、たまったものではない。有名税を支払っていると、泣き寝入りするしかない。それはそれでよいだろう。だれも、特段の不利益は受けないだろうから。
ところが、政治の世界はまた別である。枝野発言にあるように、国民にすべてを知らしめることが、必ずしも国民の利益にかなっているわけでもない。そして、国家経済や政治を運営していく手法として、多数決による「民衆主義」(「民主主義」ではない!)が有効な政治システムかどうかが、いま問われてはじめているのである。
真ん中にストレートボールを投げる。もしかして、民主主義政治システムが崩壊するかもしれない。その兆しを象徴する事件が起こっている。
わたしの直感は、「民主主義国家において、政治的な学級崩壊状態が進行している」というものである。その先に、どのような帰結をもたらされのかを考えてみたい。市民革命によって生み出された、「西洋民主主義システム」が崩壊するかもしれない、のである。
いまの世界の政治を動かしている機軸は、(1)信頼できる情報源と(2)政治的な主導権である。そのふたつを誰が握っているのか?という問いかけである。アナーキーな状況の到来で、グローバルに、とくに、西側の民主主義国家では、政治の主役が不在になりつつある。米国のオバマ政権を見るがよい。
フランスは、イギリスは、ドイツやイタリアは、そして、日本や韓国は、どうだろうか?どこかで、政治が学級崩壊をしていないだろか? 「学級崩壊」の定義は、権力(意思決定)の中心で情報が掌握できておらず、マネジメントが全体システムをうまくコントロールできていない状態を表している。
それと対照的なのが、非民主主義的な専制主義国家(中国、インド、その他イスラム国家など)である。かの国では、政治権力が拡散していない。軍事力や共産主義思想や、イスラムの宗教的教義によって、情報も政治的な支配力も、ごく少数の特権階級の手によって掌握されている。意思決定が速いのは、専制主義国家である。
実は、高度情報社会において、どちらの体制(民主主義国家と専制主義国家)が勝利するのかは、まだ見えていないのである。しかし、いま確実に言えることがひとつだけある。それは、明らかに、近代民主主義国家政治の隠れた部分が、民衆の目に見えるようになりつつあることである。
もし二つの勢力が覇権を争っているとして、片方の側の内部情報が、もう一方から丸見えの状態にあるとしよう。民主的なルールの下では、(仲間内の)情報を透明にせよというプレシャーが働いている。もう一方は、権力を掌握している人間が情報を秘匿する権限も持っている。そうだとしたら、非対称情報ゲームでは、どちらが有利か明らかである。
無制限に情報を公開するルールに従って運営されている国家は、早晩に政治的に破綻する。そうなのだ。倫理的な価値観はどうであれ、政治と経済の恥部を情報的に暴くことで、社会は不安定さを増しているのである。
民主主義政治に慣れてしまった庶民にとって、これは驚くべき逆説である。専制主義国家のほうが、実は国家としては、より安定した政治体制かもしれなのだ。
わたしは、以前、「呉智英氏の恋愛至上主義批判」をブログで引用した(「お見合い」のほうが、ペートナーを割り振る方法としては、より平等な制度である)。それと同じことである。多数決による投票制度が唯一の政治制度ではない。より安定した幸せな社会を実現できる制度が、よい制度なのである。いったん常識(社会通念)を離れないと、真実は見えてこない。
もうひとつの意思決定(権力の掌握)についても、ほぼ同じことが当てはまる。情報が透明になり、政治権力が平等に配分されれば、逆説的にではあるが、政治は求心力を失う。コントロールタワーが不在の状態になるのである。
いまの日本を見てみるがよい。誰も意思決定ができないではないか。つまり、情報と政治に関する透明性は、無政府状態=「学級崩壊状態」を引き起こす可能性があるのである。政治が学級崩壊状態に陥ると、皆が多くの情報を持ちながらも、誰も物事を決めることができなくなる。
「安定した社会」とは、誰が政治的なヘゲモニー(主導権)を握っていようが、本音のところでは、そのことをあまり気にしなくてもよい社会である。われわれは、よかれ悪しかれ、そうした社会の中で暮らすことに慣れてしまっている。ところが、いまとくに先進国では、そうした「安寧の状況」が崩れかけているのではないだろうか。
昨年末以来、マスメディア(新聞、雑誌)やネット上(オンライン情報源)で、ジャーナリストや学者、知識人が、「政治と情報に関するヘゲモニーの拡散」(代表例:ウイキリークス事件)と「経済的な発展と所得の平等」について、さまざまな観点から議論を展開している。しかし、世界の行方について、万人が納得できるような答えを、誰もまだ提示できているようには思えない。
わたしは、西欧市民革命の流れを汲んだ近代国家は、しだいに「アナーキーな状態」に突き進んでいると考えている。欧米諸国も日本も、政治的な「学級崩壊の状態」に突入しつつあることを予感させる。
その中でも、日本は、世界の最先端を走っているように見える。幸せなことに、これほどひどい政治状況と経済的な苦境(円高とデフレ)にあっても、なんとかおいしいご飯が食べられている。昨年末に発表された大手企業の業績を見てみるがよい。増収(減収)増益の企業が、なんと多いことか! ボーナスが大幅にカットされただろうか?
公務員の給与は減らされ、JALは企業再生の途上にあり、新卒の採用が停滞していることは事実である。しかし、年末の「失業者のテント」が話題になりかけては、メディアのフロントラインから消えてしまった。
町を歩けば、地下道や公園で浮浪者を見かけることがなくなったわけではない。業績が振るわないために、苦闘している企業は少なくない。年金問題や財政破綻の危機が叫ばれているものの、それでも、日本経済が崩壊するようには見えない。どことなくだが、人心は不安定な状態にある。その原因は、おそらくは、将来にわたって、「社会が安定した状態」を、ひとびとが確信できないからではないだろうか?
極論をしてみる。もしかすると、西側の先進諸国に住んでいる人々が、約100年間、とくに20世紀の中盤以降に、盲目的に信じてきた「国家の基本方針を決める意思決定の枠組み」(=「投票制度」による民主主義社会の実現)が、瓦解する危機にあるのかもしれない。欧州の市民革命に起源を持ち、第二次大戦後の米国で花開いた民主主義への信奉が、いま崩れかけようとしているのかもしれないのだ。
一国の政治制度は、ひとびとの幸福を持続する力を保持できている限りは、継続ができる。特別な状況(戦争への突入やファシズムへの熱狂)を除いては、民衆は保守的である。誰しも、それを壊そうとは思わない。たとえ、平等概念や民主主義が主観的なものであったとしても、である。
経済的な意味での幸福度が高いままであれば、それで人心は落ち着いているものだ。どんな状況にあっても、戦争のような特別な場面に遭遇しても、民衆はそれなりに自己の利害に敏感に反応する。アリやミツバチのように、人間も本能にしたがって自律的に動くものだ。大方の場合、庶民の感覚は結果としては正しい。
将来への希望を提示できれば、そして、政治家や経済界の指導者が、人民を説得できれば、支配者たちは安全である。ところが、いまどこの国をみても、ひとびとの未来を保障できなくなってきている。 いまの状況を引き起こしている根本的な原因は、「情報の開示」と「政治的ヘゲモニーの拡散」である。
前者=情報民主主義は、IT革命によって推進され、いまはそのスピードが加速されている。後者=多数決原理による政策意思決定は、東西・南北の経済格差の縮小によって、いまや危機に晒されている。
大方の民主主義国家が、まっとうな行く末を決められずに、重要な意思決定右で往左往している間に、数の上で勝る新興国は、資源もエネルギーも支配してしまいつつある。それらの国は、意思決定のスピードが迅速である。なぜなら、民衆の投票によって相談をしている必要がないからである。物事は勝手にどこかで決められてくる。
ソ連や東ドイツの欧風共産主義国家が瓦解したように、西側の民主主義国家も崩壊する可能性があるのだ。国民を富ませられなくなれば、民衆はどのような政治制度であれ、反撃を加える。
中世の貴族社会においても、軍事万能の封建社会においても、為政者は、情報と意思決定を手中に収めていた。近代民主主義国家の登場によっても、その状況は基本的には変わらなかった。たとえ投票によって政権が交代するにしても、投票制度によって正当に獲得した公的な権力を用いて、つぎの政権が樹立するまでは、メディア(情報コンテンツ)を己がものとして独占し、民衆を操作ができたのである。
経済界はといえば、現政権に寄り添う「政商」のような形で、経済資源の配分を通して、国家予算の分配にあずかってきた。再配分される資源を、政治献金として政治力の行使にまわせるように、「裏金」を袖の下として、政治活動に還流させてきたのである。
政界と経済界の間には、暗黙の了解があった。庶民には知られない形で、政治過程と経済行為(政府の殖産興業育成計画)は、隠れた取引によってをしていた。そのおこぼれに預かっていた官僚(後に政治家に転身)も、かなりの多人数がいたのである。
わたしの見方は、以下の通りである。
情報社会の到来は、表舞台の政治構造とセットになった「裏舞台の利権交換構造」(政治とカネ)を白日の下に晒してしまった。これが、いまのグローバルな無政府状態を出現させた大きな推進力だったと思っている。ウィキリークスは、このサイクルが存在することを情報的に公開してしまっている。
金融界と政界がこぞって、アサンジ氏を追い詰めようとしているのは、彼の動きが国防上まずいのではない。真実は、上記の政治と金の還流の仕組みを、庶民に伝えてしまうからである。民主主義という政治過程によって、実は産業界に有利なように、資金を再配分する仕組みに再考を迫るからである。
田中角栄以来、綿々と続いてきた「小沢一郎的な政治とカネ」のシステムは、決して日本特有のものではない。近代民主主義につきものの「おとしご」である。米国の政治ロビー活動は、政界と産業界をつなぐプロセスである。
米国は、それでも、アメリカンフットボールのゲームのように、民主党と共和党が、しばしば攻守交替してきた経験がある。だから、事に対する対処の仕方は、まだ上手なほうだったのかもしれない。それでも、基本的な「不正の構造」を暴こうとするウィキリークス的な方向は、変わらないだろう。
これは、西側の政治経済体制に対するテロ反撃なのだ。そのことを、民衆も理解しなければならない。機密情報を本当にされることが、世界の人々を幸せにするのかどうか。ネット時代の基本問題を提示されているのだ。
中国政府の対応を見てみたらよいだろう。断固として、グーグル的なオペレーションを許そうとはしないのは、権力を掌握する政策の自己利益に反するからだ。条件付でしか、情報は公開しない。それが政治を安定させる唯一の方策である。
社会学者のマズローが提示したように、人間の基本は、食べられること(生存欲求)ことと、安全(身を守れること)である。それ以外は、この二つが脅かされてしまうえば、元も子もなく、政治制度は雲散霧消する高次のニーズである。
そのように考えてみると、経済的基盤(+社会的平等)が揺らがない限りは、ひとびとは、政治に対しては無関心になる。ところが、情報社会の出現は、こうした「安寧」を打ち破る方向に機能する。さて、世界はどちらに向いて動くのだろうか?
この先の5年間、民主主義の経済的なパフォーマンスが、専制主義国家から挑戦され続けるである。そのように考えたほうがよいだろう。民主主義国家が政治経済的に安定を失えば、非民主主義国家にとって代わられる可能性がある。
わたしたちが直面している現実は、けっこう深刻である。