「小川町物語」の最終章を書いている。原稿は180ページが完成。200ページの本だから、残りは20ページである。しまむらの恒俊オーナーと藤原相談役、ヤオコーの川野幸夫会長には、ドラフトに赤字を入れてもらった。単行本の執筆は、最終コーナーを回った感じである。
部屋から外を眺めていると、突然の雷に大雨である。いつもならば、夏の終わりに来る雷とスコールが、ようやく9月も最終週になってから戻ってきたようだ。
わたしは雷が大好きである。どしゃぶりも好きだ。雨上がりの後は、すべてが洗い流される。すがすがしい木々や道路の様子を見ることができるから。
昼休み。「すきま時間」を利用して、こうしてブログを書いている。小川町物語は、単行本の完成までに10年を要している。
当初の予定では、2005年くらいに、ノンフィクションのドキュメンターを上梓しているはずだった。予定では、58歳の誕生日(来月23日)までに、作家に転身することをもくろんでいた。しかし、タイムテーブル通りには、学者を引退できなかった。
実現できなかったのは、2002年冬に、突然の経営学部長を仰せつかったからだった。今思うと、わたしの人生でこれがいちばんのダメージだったな。その後には、JFMAがMPS(環境子会社)やIFEX(国際展示会)をはじめた。転身のタイミングを失ってしまった。
5年遅れで、再来月にようやく物書きとして、第一歩を踏み出す。第一作の出版に、どうにかこぎつけることができた。そうそう、ヤオコーとしまむらの両社には、本当にお世話になった。これは、運以外の何者でもない。
出版にあたっては、「あとがき」を書く機会がある。その事情を書き残しておきたいと思っている。来週末に、原稿を用意することになる。舞台裏については、その成立までの経緯を明らかにしたい。
ここでの話は、もうすこし一般的なわたしの心象風景に関係したことである。
高校生の頃(16~18歳)、「将来は小説家になりたい」と思っていた。実家が呉服屋だったので、父にも母にも、そのことを言う機会はなかった。小説家や作家などは、商家とは職業として真逆の世界である。浮世離れしている。だから、そのことを両親に言ったこともない。
もっとも、そうかといって、大学を卒業した後に、「地に足が着いた」職業を選んだわけでもない。大学教員だから、充分に浮世離れがしている世界に飛び込んだことになる。
30代の半ばまでに、学者としてなんとか自立できる目処がたってきた。そこで、考えたのが、子供の頃の自分の夢である。実は、その後に、統計学と計算機に別れを告げ、取材ベースの仕事を多くすることになる。
かなり意図的に、企業家へのインタビューを増やしていった。それは、来る日の「素材集め」のためである。柳井正、藤原秀次郎、川野幸夫、坂本孝、岩田弘三、矢島孝敏、江尻義久など、その事業の成り立ちを見ると同時に、その人となりを見ていた。
作品はその媒介であり、忘備録だった。『当世ブランド物語』(誠文堂新光社)や『マーケティング情報革命』(有斐閣)、『中国へのブランド移転物語』(ダイヤモンドフリードマン社の誌上連載)は、その延長線上で用意した書籍である。
それらすべては、いつか「ノンフィクション・ドキュメンタリー」を書くためのステップとして、ひそかに取り組んできた書き方教室だった。そして、ようやく、今回の単行本にたどり着いたのである。
正確に言えば、だから、小川町物語の出版までに、なんと25年を要しているのだ。あと、5章と終章を残すのみ。仕事に戻ることにしよう。