ヤオコー川野幸夫会長と長電話(原稿のチェック依頼と渥美先生談義)

 昨夜、遅い時間にヤオコーの川野幸夫会長と電話で話した。小川町物語の原稿が、第5章を除いてほぼ完成しつつある。連載時の倍ほどのボリュームになっている。「新しく書き下ろした部分を、チェックしてください」。お願いの電話だった。


再来週の22日から、海外に出られるようだった(日本スーパーマーケット協会のお仕事か?)。「その前に送ってください」とのお返事だった。
 いまは、ヤオコーの経営実務を清巳社長に任せて、社会的な活動に比重が移ってきているのだろう。小売業の協会組織も、日本スーパーマーケット協会やチェーンストア協会をはじめとして、実にたくさんある。それらの再編成が始まっている。川野会長は、その中心に座っておられる気がする。
 そういえば、しまむらの藤原相談役ともしばらく連絡をしていない。本日、ドラフトチェックの依頼をするつもりだ。おふたりには、社長室(経営企画室)を通さずに、いままでも直接に原稿の閲読をお願いしている。

 川野会長には、『しまむらとヤオコー(仮)』の出版日が、11月30日に決まったことをお伝えした。来週の9月14日が、「八百幸商店」の創業から、ヤオコーの120年周年記念日にあたる。
 記念式典があるらしいことを知っていたので、書籍の出版をこの日に合わせたかった。とうとう間に合わず。とはいえ、書籍の刊行をとても喜んでくださった。ヤオコーのことを書いた書籍としては、今回がはじめてである。

 川野さんとの電話の話しが長くなった。というのは、亡くなられた渥美先生の話になったからである。今週の月曜日、9月7日に、赤坂グランドプリンスで「渥美先生のお別れ会」があった。その会場で配られた「お別れのしおり」に、川野さんがわたしの名前を見つけたからである。川野会長も一ページ分を寄稿されていたことを、わたしも知っていた。
 わたしと渥美先生の関係は、ご存じなかったようだ。もっとも、わたしが渥美先生と親しくさせていただくようになったのは、「チェーンストアエイジ」で連載が始まった後からだった。意外に感じられていた様子だった。
 そのへんのことは、10月に入ってから、奥様の光世さんとご一緒に、3人で食事をすることになっている。書籍の校正ゲラを見ながら、ゆっくりとと思っている。

 歴史的な回顧になるが、連載時の「小川町経営風土記」でも、しまむらとヤオコーの創業期(1970~1980)に、渥美先生が3度も登場する。両社の創業のころ、渥美先生が果たした役割は大きい。決定的な場面での決断には、大きな影響を与えている。
 ただし、川野会長が言うには、「多様化したいまの社会では、渥美先生が主張なさっている標準化路線は、もう通用しなくなっているのではないかな」だった。とくに、成熟度が激しい食の世界では、その傾向が激しいのだと思う。わたしにも、川野会長が言いたいことのニュアンスは、なんとなくわかる。
 もっとも、カインズ(土屋社長)やニトリ(似鳥社長)、西松屋(大村社長)、幸楽苑(新井田会長)を見ると、新規の業態を切り開いてきた会社では、渥美理論は有効である。渥美先生の言う「基本」を忠実に実行した会社が、やはり成功しているのである。
 わたしの印象では、これらの経営者は真面目な人たちである。渥美先生は、ややエキセントリックなところ(成功した経営者に対してであっても、良い悪いについては、はっきりモノを言う)があった。事業的に成功して経営者からは、あの「厳しい指導スタイル」が疎まれたのかもしれない。
 離れていった経営者には、それなりのプライドもあっただろう。そこを、まじめに受け止めた経営者たちだけが、最後まで渥美先生を慕って、そして、先生の原則・理論をを信じて、そのまま残ったような気がする。

 しかしながら、業態が複雑になると、対応も難しくなる。応用問題は、自分の頭で考えないといけない。渥美先生の理論は、個別具体的な場面では、たしかに適応がむずかしくなる。最近になって、わたしはそのように考えるようになった。
 たとえば、フードビジネスがその良い例である。渥美さんの手引きで、藤田田さんがマクドナルドを日本に持ち込んだころは、話は単純だった。フードビジネスの基本原則、QSC+Vに忠実に、米国モデルを日本に移転すればよかった。成功モデル(お手本)があったし、日本人の貪欲な胃袋はどんどん膨らんでいた。
 ところが、手ごわい競合チェーンとしてモスバーガーやフレッシュネスバーガーが現れて、マクドナルドは変質していった。経済環境や消費者心理も変容する。日本人の胃袋も、人口の高齢化とともに、しだいにちぢんでいった。ずいぶんと贅沢にもなった。
 基本的な米国モデルは、それはそれとして、原田CEOが低価格路線と決別したところで、単純な標準化に手が加えられた。そのとき、渥美理論からの示唆は少なかっただろう。
 サービス品質とオペレーションのトレードオフを解決したのが、経営者としての原田CEOの秀逸なところだった。「原田マック革命」と呼んでよいだろう。その先にある消費者が求めるニーズを、いちはやく理解して、具体的に現場に落とし込んでいったのである。
 日本マクドナルドは、マスマーケットを相手にしているにも関わらず、成城石井(大久保元社長)やヤオコーと同じように、いまや「プレミアム路線」の企業である。ユニクロもしかりである。柳井さんは、脱低価格宣言を5年前に発表している。早々と、脱ディスカウント路線に移って、利益構造を改善していったのである。

 路線転換に苦労しているのが、吉野家である。高い品質を訴求するならば(380円の牛丼にこだわるのならば)、松屋やすき屋などと、真っ向から勝負をする必要などはない。しっかりと利益を追求すればよいのだ。
 クラス討議「原田マクドナルドから吉野家が学ぶべきこと」のとき、法政大学の大学院生も、わたしとほぼ同じ考えだった。
 280円の「牛鍋丼」は、どうだろうか? せっかくの新コンセプト商品で、低価格はまずいのではないだろうか。せめて牛丼と同じ値段の380円から少し上の価格帯を狙いたい。牛鍋どんぶりの価格帯は、420円くらいでよいのではないだろうか。
 もしかすると、江戸時代、創業時の材料をもっと厳選して、480円の価格帯でもよかったくらいだと、わたしは思っている。ちなみに、本日、国道16号線の吉野家の店に、食べに言ってみようと思う。

 原田革命の成功要因をつぶさに見てみれば、標準化にもとづく低価格路線が限界であることは、阿部修仁社長にはわかっているはずである。先月の本HPで、牛角の経営について苦言を呈したが、「レインズ゙」がいま心しなければならないのは、吉野家ではなく、マクドナルドの路線を歩めという示唆である。
 傷が深くならないうちに、原田マクドナルド流のプレミアム路線に転換すべきである。買収した系列の成城石井が、その道を歩いて成功している。学ぶことは、少なくないだろう。

 川野会長との電話からはじまって、ずいぶんと長くなってしまった。朝の大切な時間である。小川町物語、第4章のエンディング部分の執筆に、そろそろ戻ることにしよう。