家族総出演で10年ぶりのBBQパーティーは、無事に夕方の19時にはじまった。いつのまにか、それぞれが役割期待の予想通りに、持ち場を離れることがなかった。
長男の由は、惣菜企業「ロックフィールド」で、商品開発を担当するプロのシェフである。野菜、焼肉、その他の焼き物を手際よく仕込み始めた。6時30分すぎのことである。「遅いぞ!」とわたしは文句を言わなかった。いや、小言を言わなくてよくなったのだ。
次男の真継は、庭の芝刈りを始めた。病み上がりである。昨日は、鎌ヶ谷総合病院で、喉を腫らして点滴を受けていたのに、いつまでたっても、お姉ちゃん(知海)には頭があがらない。兄弟間には、わたしたちが知りえない、不可思議な人間関係があるらしい。
長女の知海は、宍倉家の長男坊の結婚式のために、「マリッジボード」を準備するので、京都から千葉に呼び出されたらしい。どうやら結婚式に向けて、おそろしい企画が進行しているらしい。わたしらには、何も知らされていない。
ちりじりばらばらになっても、結婚式には集合。ご近所さんが仲良しなのは、いいことだ。むかしは、町内会が縁日で焼きそばを作ったり、冷たい飲み物を売ったりしたわな。
BBQのペーティーは、定刻の19時に始まった。帰ってくる車のエンジン音を聞いてからは10分。BBQ-PTが始まるまで、ほんのわずかの時間だった。あれは、まるで神業だった。
10年前の「火付け役」は誰だったのだろうか? 時間が経過してしまうと、主役は交代である。もしかして、最初の木炭にアルコール点火をしていたのは、わたしの役回りだったのかもしれない。いまは、自然に次男の真継がその役目を果たしている。
長男が仕込んだ肉と野菜では、全体的にBBQが薄味になる。わたしは、ノーブルな味にはやや不満だったので、醤油や市販のたれをかけて、適当に味をごまかした。食べものの王道からは外れている。わたしのような食べ方は、本当はあまりよろしくはないらしい。
塩とコショウで味わうのが、ほんとうの食道らしいのだが、まあ、かまったものではない。こんなんでもいいだろう。よってくると、どうでもよくなる。
BBQパーティーは、2時間で終わった。庭で大騒ぎをした。お隣さんは、明かりがついていない。二軒とも、帰省中と見える。騒いでも、とくに苦情が来る気配はなさそうだ。
むかしは、いろいろあったな。怒鳴り込んできた、お向かいさんもいたな。近所づきあいはむずかしい。派閥ができてしまったり。企業や大学とおなじで、いやになった。
長女は、うわばみのように、日本酒でウイスキーでも、ウォッカでも、何でも飲む。ひたすら飲み続ける。強いよな、この女子は、、わたしの娘だ。どこから来ているのだろう、この根性は。
意外だった。おもしろいことに、男2人はアルコールをまったく飲まない。夜遅くにさらに遊びに出る予定の長男も、病院で抗生物質を飲んでいる次男も、アルコールにはまったく口を付けなかった。
いまの若者は、実直である。社会的なルールには、原則としては従うおうとする。悪いことではない。
それに対して、わたしたちの世代は、いつもルールに抵触した行動をとっていたな。それがいまは。わたしらは、すっごく悪い子だった。むかしがとても懐かしい。
9時過ぎには、パーティーが終わった。実に、あっさりしたものである。翌日(本日)の午後2時には、長男(神戸在住)と長女(京都在住)の二人が、関西に戻っていった。次男も、本日は、東海道新幹線の勤務らしい。
全員が東海道を西に戻っていく。おかしな風景だな。わたしは、息子や娘が、いまごろは、海外(欧米、アジア)にいるだろうと思っていた。それが、全員が関西である。
信じられない思いで、いま自宅の仕事部屋で、わたしはPCに向っている。午前中に、ペガサスクラブから依頼のあった「渥美先生の追悼文」を書いていた。渥美先生も、三重県松阪市の出身だった。
わたしは、田舎出てきたから、もう帰る場所がない。この町で死にたくはないな。そういえば、入るお墓も、お経を上げてくれるお寺も無い。わたしのように、根っこのない人間は、将来は一体どうなってしまうのだろうか?
息子や娘たちには、とくに期待することは何もない。いろいろあったが、わたしがしてやれるだけのことはしてあげた。そう思う。基本的に、全員が丈夫な体をもっている。この先も、健康でいてくれれば、それでOKである。
世の中のために、もっと大きな仕事をして欲しいと思うが。彼らには、それは無理だろう。身の回りのこと、身の丈にあったしごとで、彼らは一生をおわるのだろうな。なんとなく、しまむらの島村恒俊オーナーの心境になってしまう。
「サラリーマンの子供が、たとえ、それが社長の子息だとして、経営者の後を継ぐのは所詮、無理だよね」。たしかに、商人の血は、現場で苦労していなければ、継承できるものではない。
わたしの子供たちも、商人の末裔ではある。しかし、真の商売人のDNAを継承しているとは思えない。それが、現実なのである。番頭さんがいたりして、どうにか格好はつくが、大きな小売業の継承は、本来はむずかしいのだ。
ペガサスクラブ創設者の渥美先生には、6人のお子さんがいらした。それぞれが立派な人生を歩まれている。だが、JRCの後継は想像以上にむずかしいだろう。(渥美)六雄くんは、この先、とても苦労しそうだ。ヤオコーの4代目社長になりそうな川野澄人くんも同じだ。
経営コンサルや大学教授の仕事は、基本的に後継ができるわけではない。二代目の学者もいるにはいるが、それは本人の努力の結果であって、血脈とはあまり関係がない。たまたま、親父さんのコネクションでどうにか教授になる若者もいる。
それでも、いい仕事をしている二世研究者は、ごく例外である。マーケティング分野では、明治学院大学から、母校の慶応大学に戻った清水聡君くらいだろう。でも、彼も、若い頃はけっこう屈折していたよね。結果、うまくいったからよかったけど(ご本人が、小川先生のコメントを見たら、ショックを受けるかな(笑))。
相撲取りや歌舞伎役者とは、根本的にちがうのだ。この世界は、別の意味でそう甘くはない。大学院のドクターコースに進学したがる学生は少なくない。成功するための条件は、事前に決まっているようなものだ。ある種のマニアックな探究心と知的な営為をおもしろいと思えるセンス。
突き詰めると、この世界も「個人技」である。対象とテーマは、科学であるが、そのために要求される技能は、名人芸である。 しっかりと見てほしい。ドラッカーの死後に、彼の業績をつぐものはだれも出ていない。それが現実である。