7年目の卒業式: 経営学部7年生、徳永君やすまさ君の場合(前編)

卒業式の日(3月24日)、深夜23時に、徳永くんからメールが届いていた。翌朝に寝起きで確認したので、早速、返事を書いた。「徳永君 おはようございます。とりあえず卒業おめでとう! 小川」。経営学部7年生の“やす”が、とうとう卒業できたのだ。本当におめでたいのは、実は母親の奈美さんである。

 わたしに宛てた徳永君のメールは、「ご無沙汰しております。法政大学の徳永です。」ではじまっていた。2010年3月24日(水)、午後 23時38分(JST)。

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敬愛する小川孔輔教授へ

大変ご無沙汰しております。
法政大学の、改め、株式会社アクアの徳永です。

本日無事に卒業式を迎え、7年間という通常のカリキュラムの
倍の学生生活を終えることが出来ました。
これもひとえに小川先生の暖かいご協力とお力添えのお陰だと
本当に感謝しております。

今後は株式会社アクアに4月1日に正式に入社し、母親をサポートしながら
アクアの繁栄を目指していきたいと思っています。

正直、自分にとって大学生活は挫折の日々でした。
一昨年の3月、小川先生の研究室でMPSのお手伝いをさせてもらえる
便宜を図ってもらえなかったら・・・

本当に何も無い大学生活に、もしくは退学していたかもしれません。
無事に卒業できたこと、本日卒業式に参加した私の祖父、祖母も、もちろん母親も
小川先生に本当に感謝しております。

(後略)

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 徳永くんは、4年前の自分の姿を、もう忘れてしまっているだろう。わたしから、“やっちゃん”(ゼミ生たちの徳永君の呼び名)がどんな風に見えたのかを。たしか、、、2006年の秋のことである。

 その日、ボアソナードタワー18階の研究室に連れてこられた泰正君の印象は、まじめそうだが、覇気にかける若い子の典型だった。目がうつろで、どこか視線が定まらない。そうかと思うと、母親の奈美さんが一所懸命に息子のことを説明している間は、じっと下を見ている。そう、なんとなく「影の薄い子」だった
 奈美さんは、おっとりそうに見えるが、苦労人である。シングルマザーで3人の子持ち。鴻巣などでゲームセンターなど数箇所、トステムビバのフードコートを数店舗、自分の会社「㈱アクア」で経営している。従業員66人のオーナー経営者である。
 「むかしは、ゲーセンのお姉ちゃんだっんですよ~」とおちゃらけて話すが、しっかりものの女社長である。そんなとき、えてして長男といえば、「ふにゃふにゃ」にできあがってしまうものである。

 泰正君が法政大学に入学してきた2003年は、わたしが学部長に就任して2年目だった。春先に「学部長講演」というオール法政のセレモニーがある。2年目の学部長の誰かが、新入生の父母を招いて講演会を行うときの講師役を務める。わたしに白羽の矢が立った。
 講堂には、聴衆が700~800人。満席の511号教室の一番前の席に、奈美さんが座っていた。講演が終わって、奈美さんがわたしに挨拶をしにきたのだと思う。一言二言、簡単に会話を交わしてから、一般の父母に対するのと同様に、徳永さんにPCメールアドレスが入った学部長の名刺を渡したのだろう。
 母親は、こんなとき、機を見るに敏である。翌日にさっそく、わたし宛に電子メールが届いた。
 「自分も商売をしているので、先生の講演、おもしろかったです。今後ともよろしくお願いします」。
 そんなメールの内容だったはずである。そのときの講演は、藤田田社長時代の「マクドナルド」の話と「植物の時代」(静脈系マーケティング、有機農業)の話をしたはずである。
 その後のことは、よく覚えていないが、それから3年後(2006年)のある日、突如、わたしのPCアドレスに奈美さんからメールが届いた。
 「入学して4年。息子は単位がほとんど取れていないことが判明しました。どうしたらいいかわかりません。是非、本人に会ってほしいのですが、お時間がいただけますでしょうか? 徳永奈美」。
 うろ覚えで正確ではないが、そんなメールだったような気がする。

 奈美さんの口癖で、ゆっくりしゃべってから、話の最後は、「どうしたらいいんでしょね。先生」で終わる。しっかりものの弟さんは、春に早稲田に合格。下の妹さんは、ハンドボール部のキャプテンで、部活のリーダーとしてばりばりで活躍している。
 いまや頭痛のタネは、「やす」(奈美さんの呼び方)だけである。長男の泰正君は、目標がもてないで、ぶらぶら毎日を過ごしているらしかった。雀荘に入り浸って、一時期はプロの雀士をめざしたこともあったらしい。頭は悪くない。「たいして勉強もしないで、現役で経営学部に入れた」(徳永さん)のだから、基礎的な能力は低いはずがない。マージャンがうまい人間に、馬鹿はいない。
 入学4年目で3年生の”やす”は、母の隣に座って、ほとんど口を開かない。たしかに、どうしようもない困ったどら息子である。真面目に走る気のない競走馬ではあるが、とにかく未勝利戦のレースに出さないわけにいかない。その役割を担って、困り果てている調教師の顔を、母親の奈美さんはしていた。
 よく聞けば、3年に進級しているとはいうものの、4年間で取得した単位数は、30単位弱である。卒業までに、138単位が必要である。もうこの時点で4年には進級できない。5年生は確定である。しかも、あと2年間で、100単位をクリアしなければならない。

 気の毒だが、実はわたしの息子(長男の由)も、その前年に、単位不足で東京理科大を中退していた。
 息子の場合も、やっちゃんと同じで、3年間で取得していたのがほぼ30単位。その事実を知ったとき、あまりの衝撃に、わたしはあきれてひっくりかえったものだった。大学の単位などは、授業に出席していさえいれば、簡単に取れることを知っているからである。いまさらながら、わが子を「自立した大人」として扱いすぎてしまった、とおおいに後悔したものである。
 わが長男も、子供のときから成績は悪くは無かった。中学・高校では、バスケットボールのスタープレイヤー。ところが、もともと勉強がそれほど好きなわけではない。千葉県の進学校から、一浪をして理科大の建築学科に入ったものの、それは形だけである。バスケットとアルバイトにうつつを抜かしている間に、気がついてみると、授業にはほとんど出なくjなっていた。どこかで聞いたような話である。
 すったもんだの末に、長男は大学を中退した。その後、国立の「辻クッキングスクール(イタリアン・フレンチ)」に入りなおしていた。一年間の授業料は240万円。卒業旅行と称して、フランスとイタリアへの渡航費用を40万円ほど出させられた。ことほどさように、甘い父親である。
 いまだから言えるが、『誰にも聞けなかった 値段のひみつ』(2002年、日本経済新聞社)の印税はすべて、息子の辻料理学校への再入学のために消えた。辻を卒業した後、長男は、三ツ星レストランの「ひらまつ」の調理場で、しこしことニンジンやじゃがいもの皮をむいていた。
 徳永さん親子が研究室に来た当時は、イタリアン・レストラン「オリ」(渋谷のセルリアンタワー2F)に転職して、アシスタントシェフとして働いていた。世のきびしさに触れて、それでも自分が好きな仕事に就けたのだからと、息子は一切、文句を言わなくなっていた。

 わたしから、ふたりにそんな話をしたのだろう。小川家の事例は、「他山の石」である。なんとなく納得して、母と息子は帰っていった。
 研究室での面談の後、しばらくしてから、泰正君は小川ゼミの活動に参加するようになった。2007年に、守谷の「ロックシティ」(イオングループの不動産開発会社、SCモール運営)の中に、奈美さんは自社のフードコートを出店することになった。小川ゼミの共同研究(フィールドワーク)のために、ラーメンと石焼ビビンバの店を、リサーチの対象店舗として提供。調査にも積極的に協力してくれていた。
 フィールドワークの作業を通して、泰正君は、院生や学生たちと一緒に調査に参加していた。フードコートで割引クーポンを配ったり、アクアの会長(奈美さんの後見人)や元マックのスーパーバイザーと一緒に、販売データを分析していた。2008年には、北上尾の「エスパ」(スポート・アミューズメント施設)のフィールドワーク調査にも、継続して参加していた。
 だから、学校の授業にもきちんと出て、単位も順調に取得しているものとばかり思っていた。ところが、2008年3月3日の経営学部教授会で、予想外のことが起こってしまった。

 毎年3月の教授会には、「進級・進学者」の名簿が配られる。その逆のリストが、「留級・留年者」の名簿である。卒業や新級のために、不足している「単位数」が記されている。不足単位数は、たいていは一科目2単位か4単位、あるいは2科目(4~8単位)程度である。
 3~4年に一回くらい、わがゼミ生の中にも、卒業できない学生が出る。わずか4単位の不足なのに、退学しようとした学生(K君)を必死に説得して、過去に思い留まらせたことなどを思い出していた。毎年、「今年は(留年者)はいないよなあー」と、教授会の配布資料をめくっていく。
 4年生の留年者リストに、小川セミの学生がいないことを確認した。「今年も無事に全員卒業か、、」。いつもはそれで終わるのだが、時間があったのだろう。名簿をさらにくくっていった。すると、なんと「まさか!」の絶句である。3年次の留級生リストの頁に、「徳永泰正」の名前を見つけてしまったのである。
 
(後編につづく)