人の書いたものをHPで引用することは、あまりない。しかし、本日は例外である。呉智英氏が「SAPIO」(2010年1月27日号)に書いていた評論「「お一人様」はおすすめしません。婚活ブームは文明の矛盾の帰結なのです。」は、納得の発言であった。なかなかここまで明確に発言することは、ふつう人ならばむずかしいだろう。
全文を引用してしまう。知的所有権を侵害してしまいそうだが、中途半端よりはましだろう。
呉氏の言説でとりわけ納得できる部分は、<皆が気づき始めた個人の自由という「嘘」>以下の文章である。
拙著『マーケティング入門』でも記述したが、お見合いなどで制度的に守られないとすれば、恋愛と結婚は、ある種の競争ゲームである。「相手(顧客)を求めるマッチング競技」という視点から恋愛や結婚を見ると、高い技術(営業スキル)を有するものが、そして、そのひとたちだけが、この恋愛ゲームに勝利することができる。
ゲームへの取り組み方(競技の仕方)は、ある面では教えることもできる。しかし、恋愛・結婚ゲームの成否を決する最大の要因は、プレイヤーが持っている初期資源である。ゲームにおける初期資源とは、企業が成長するときに必要となる「経営資源」と同じである。つまり、資産や家柄や美貌である。それは、紛れも無い事実である。
自由恋愛をよしとするのは、ある特定の時代に優勢な思想に根ざしている。自由は、入口(手段)であって、出口(目的)ではない。呉氏の主張は、けっこう過激である。以下のパラグラフは、実に刺激的な主張ではあるが、本音では、「はたとひざを打つ」ものである。
呉氏の主張は、以下のように続く。
「私は、二十一世紀は個人の自由だの人間は平等だのという嘘が行き詰まり、パラダイム・チェンジに直面する時代だと見ています。個人の自由、その結果、その人が幸福になるも自由、不幸になるも自由これなら、何のための個人の自由なんでしょう。恋愛能力のある人とない人の不平等は、あまり真摯な議論にはなりませんが、厳然としてあり、またその平等は実現できません。財産と名声のある人が楽しいお一人様の老後を送り、そういう人の言説に煽られた人が馬鹿を見ます。」
納得の議論である。自由と平等の結果が不幸ならば、恋愛の自由などに何の意味があるだろうか? 社会がめざすべき究極の目標(出口)は、ひとびとの幸せである。そうした観点からながめてみれば、封建時代のアジアやイスラムの結婚の風習にも、一定程度の合理性を認めざるを得ないのである。 このまま、恋愛・結婚ゲームの結果に、多数のひとびとが不平等感や不幸を感じるようになれば、恋愛の自由などは捨ててよい、婚活などのシステムはおかしいのでは?という話にもなりかねない。
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<リード>
「お一人様」がもてはやされる一方、婚活ブームは急拡大している。一見矛盾するようなこの現象の背景には何があるのか。二十一世紀が始まってちょうど十年目。評論家・呉智英氏は婚活ブームの底に「二十世紀型価値観の大転換」を見る。
<お見合いの消滅と「恋愛難民」の出現>
婚活がここ数年話題になっていますが、日本人の社会意識・生活意識の変化の中で必然的な現象だろうと思います。
恋愛結婚と見合い結婚の比率が逆転し、恋愛結婚が多数派になったのは、一九六〇年代末期です。団塊の世代が、今では死語になった結婚適齢期に達しかけていたのです。特に女子は二十代前半が適齢期とされていました。その頃から恋愛結婚が多数派になったと見ていいでしょう。これによって「恋愛至上主義」が広まりました。
この恋愛至上主義という言葉には解説が必要です。というのは、昨今芸能誌などでこの言葉の意味が正反対に誤用されているからです。
この言葉は、明治大正期の英文学者厨川白村の『近代の恋愛観』(大正十一年刊)で広く知られるようになりました。この本で厨川は、閨閥主義・門閥主義による見合い結婚は女の人格を無視した因習だから、恋愛に基づいて結婚すべし、と主張しました。厨川は、自説について「恋愛の自由」と淫奔な「自由恋愛」を混同するなと注意を喚起していますし、「永続性こそ恋愛の本質的要素」とも言っています。従って、芸能人などが次々に相手を代えて恋愛を楽しむ風潮を恋愛至上主義と称するのは全くの誤用です。恋愛至上主義とは生真面目な純愛主義のことなのです。
この恋愛至上主義が大正デモクラシーを背景にしていることは容易に想像できるでしょう。また、その延長線として、戦後民主主義の完成期に恋愛結婚が多数派になったのも理解しやすいでしょう。ここには、生活と結婚の分離が見られます。かつては、生きてゆくための重要な手段・基盤として結婚があり、そうであれば閨閥主義も否応なく生まれるわけです。しかし、社会が豊かになり、福祉制度も整備されると、生活のために結婚をする必要がなくなりました。見合い結婚が少数派になるのももっともです。
しかし、もともと生きてゆく手段としてのみ結婚があったわけではありません。男女が家庭を営み家族を作るという意味で、普通誰もが結婚を望むものです。ところが、恋愛結婚が主流になると、昨今言われる「恋愛能力」「恋愛スキル」なるのが問われるようになります。これのない男女は恋愛難民になる。それでは困るという人たちが婚活をするわけです。
かつて見合い結婚が主流であった時代では、この婚活に当たるものを世話好きの親戚の叔母さんといった人たちが担っていました。結婚希望者のリスト、その人たちの条件、お見合いで相手に気に入られるノウハウなどを、こうした人たちが持っていました。それが民間にある社会制度としての見合いシステムでした。しかし、社会意識・生活意識の変化の中でこれが崩壊し、一人一人が恋愛スキルを問われ、婚活をしなければならないようになったのです。
なんか、小泉改革、自己責任論、みたいな話だね(笑)。民営自由化、自己責任論も、社会的必然として一理はあるのですが、かつてあった経済システムの微妙な調整作用も一気に破壊してしまいました。非正規雇用は、一つの職場に拘束されない自由な労働形態ではあるのですが、その利点を十分に生かしきっている人はごく少数でしょう。規制が厳しかったタクシー業界が自由競争化によって、苛烈な職場に変わってしまいました。今、見なおし、揺り戻しの時期が来ています。婚活という未成熟で不完全な制度も、こうした過渡期の現象だろうと私は思います。
さて、この秋の内閣府の世論調査で「結婚は個人の自由だから、するしないはどちらでもいい」と答えた人が七割に達したそうです。また「結婚しても必ずしも子供を持つ必要がない」と答えた人も四割以上いたそうです。
私はこういう回答は、熟慮の結果の回答だとは思いませんし、本音の反映だとも思いません。個人の自由という枕詞がつけば、確かに誰でもそう答えることになります。こんな設問なら、どうでしょう。「郷里の会社に就職するのと東京へ出てロック歌手を目指すのと、どちらがいいと思いますか」。答えは「人生の選択は個人の自由だから、どちらでもいい」と、アンケートの回答なら誰でも答えますよ。でも、家族や親しい友人で、人生の選択は個人の自由だからどちらでもいいんだよと答える人は、まずいませんね(笑)。ロック歌手の成功率がいかに低いものか、中高年の未婚者の人生がいかに寂しいものか、世間知のある人ならわかるからです。
お一人様の楽し気な老後を説く人もいますが、財産も名声もある人はいいでしょう。しかし、名もなく貧しく美しくもなく、家族さえない人は、どうなの(笑)。
私は、十一年前、老親の世話をするため、東京から愛知県に転居しました。仕事の都合上、同居は無理なので、マンションを借りました。当時五十三歳。部屋を借りるのに一苦労でした。職業が文筆家。一部の人を除けば不安定かつ低収入。私がその不安定かつ低収入の一人です。さらに高齢かつ独身。いつ孤独死して腐乱死体で発見されるかしれない。オーナーが部屋を貸したがらないのも当然といえば当然なのです。
幸い不動産屋の旧友がいたので間に入ってもらい、なんとか借りられました。マンションでも買うのならいいのです。つまり金があれば問題はない。賃貸住宅にしか住めない人こそ困るのです。
近所で下着泥棒や幼女への性犯罪などの事件があると、これもちょっとまずい(笑)。警察は私に疑いをかけるでしょうし、それが捜査の常道です。もっとも、私は落第生であったとはいえ大学の法学部を卒業していますから、参考人として事情聴取されようが、誤認逮捕されようが、しかるべき法的反撃ができます。冤罪事件はたいていこうした法律知識のない人が巻き込まれるものです。
<皆が気づき始めた個人の自由という「嘘」>
私は自分が独身でいるのは一種の〝業〟のようなものだと思っています。家族を持つと、言論人として自由な発言がしにくくなる、という気持ちもあります。いずれにせよ、他人にすすめる気は全くありませんし、個人の自由だからお一人様の老後もいいよとも思いません。ただ、私は無計画で衝動的な破滅型の人間ではないので、最低限のリスクヘッジはしています。国民年金は入っていますし、それに加えて年金基金にも加入しています。なんとか食うだけの保障はあるのです。
私は、二十一世紀は個人の自由だの人間は平等だのという嘘が行き詰まり、パラダイム・チェンジに直面する時代だと見ています。個人の自由、その結果、その人が幸福になるも自由、不幸になるも自由これなら、何のための個人の自由なんでしょう。恋愛能力のある人とない人の不平等は、あまり真摯な議論にはなりませんが、厳然としてあり、またその平等は実現できません。財産と名声のある人が楽しいお一人様の老後を送り、そういう人の言説に煽られた人が馬鹿を見ます。
二十一世紀の最初の十年が今年で完了します。二十世紀文明の中に生じていた矛盾や問題があちこちで顔を出しています。結婚だの恋愛だのは、一見気づきにくいのですが、ある時代の文明と密接に結びついているのです。
混乱も悲劇も喜劇も、これからはっきりしてくるかもしれません。