中国へ進出した企業で、提携先に優良納税者を多数排出している日本企業がふたつある。一社は、ファーストリテイリング。現地縫製工場のほとんどが、地元でナンバーワン納税者にリストアップされている。
もう一社は、資生堂の合弁企業「資生堂麗源化粧品有限公司」。同社が高額納税者として表彰されただけでなく、資生堂コーナーを設けている百貨店が大いに潤っている。現地化粧品ブランド”AUPRES”の成功は、助走路の長いブランドと技術移転の成果である。
<リッツカールトンホテル別館に美容センター開設>
美しさを求める女性の願望に国境はない。開放政策が本格化するなかで、経済的に余裕が生まれてきた中国人女性も、遅ればせながら世界の化粧文化の仲間入りを果たしつつある。
上海市・南京西路にあるポートマン・リッツカールトンホテルのアネックス1階に、資生堂が運営する美容センター「プラース・ドゥ・ラ・ポーテ」がオープンしたのは、1998年1月15日のことである。フランス語で”美の広場”を意味する美容センターは、1968年の香港が第一号である。その後30年間で、資生堂は世界の主要都市に10カ所のビューティーセンターを開設してきた(2003年4月現在?カ所)。「上海美容中心」は、北京市の直営店「サロン デ コスメティーク」(2001年4月開設)より早く、世界で11番目の美の拠点である。
高級ホテルのようなラグジャリアスな雰囲気の室内。空間をゆったりとったサロンの個室で美容美員の施術を受けるには、累積で1,500元(約22,500円)の化粧品を購入しなければならない。この金額は、平均的な上海市民の月収に近い。受付をすませた来場者は、リラクゼーションルームのリクライニングシートに腰掛けて順番を待つ。全部で5室ある”お手入れルーム”では、ひとり一人の顧客に合わせて化粧法やお肌のお手入れに関してパーソナルカウンセリングが実施され、同時にフェーシャルサービスなどの提供が受けられる。
<化粧品の顧客ピラミッド>
資生堂の顧客は、経済的に豊かな階層のひとたちである。上海市の総人口は約1,600万人。化粧品の潜在顧客は、都市部に住んでいる10代後半から30代の女性たちで、マーケットボリュームにして約300万人。資生堂ブランドの購入客は、上層部4~5%に集中している(図:顧客のピラミッド)。
上海駐在事務所の永井良規所長の推定によると、輸入品ブランドである”SHISEIDO”の顧客が約2万5千人、現地資生堂ブランド”AUPRES”の顧客が約5万人。合計で7万5千人が資生堂ブランドを購入する顧客である。海外有名ブランドを押しのけて、プレミアム市場(12~15万人)では、資生堂のシェアが圧倒的に高いことがわかる。
美容センターに招待されるロイヤル顧客は、資生堂ブランド購入客のわずか約3%。永井所長の顧客リストには、約750人の女性が登録されている。年間平均で約5、000元(約7万5千円)を”SHISEIDO”の化粧品に支出してくれる。彼女たちロイヤルカスタマーの典型的なプロフィールは、3通りである。上海に進出してきた外資系企業で働くOL、自ら事業を行っている独立志向の女性、成功した起業家の妻たちである。
「(中国現地ブランド)”AUPRES”を購入してくれている層は、残り97%の方たちです。”BASIC AUPRES”の単価が100元(約1500円)ですから、彼女たちの収入でもちょっと頑張ればなんとか手が届く値段なのですね」(永井所長)
”AUPRES”のメイン顧客は、国営企業で働いているような堅実な女性である。スキンケア製品を中心に、洗顔・ ・乳液の3点セットで年間4回。総収入のほぼ7~8%(1200元)を化粧品に費やしている。ちなみに、美白効果を訴求した”AUPRES WHITE”は、定価150元(約2250円)。新発売のプレミアムブランド”AUPRES DX”は、定価180元(約2700円)である。日本からの輸入高級ブランドの”SHISEDO”は、定価300元(約4500円)で販売されている。
なお、顧客ピラミッドの中層部以下には、資生堂の現地合弁企業「上海卓多姿中信(シャンハイ ゾートス チュウシン)化粧品有限公司」が製造販売しているセルフセレクションブランドの”Za”(ジーエイ)がある。”ジーエイ”は、”レブロン”、メイベリン”、”ロレアル”など、他社の合弁製品と競合している。その下には、約3,000社の国営企業や合作企業が製造している普及品がひしめきあっている。
シャンプー・リンスなどのヘアケア製品を含めて、中国における化粧品の市場規模は、推定で約5,500~6,000億円(2001年推計、資生堂調査)。毎年売上が10~15%の勢いで伸び続けているので、中国の化粧品市場は、2010年ごろには一兆円を超えるものと見られている。資生堂グループ全体の売上げは、2002年では約180億円である(現地出荷ベース)。
<”三高”マーケティングの成果>
80年代に進出した日本企業のほとんどが、いまだに中国ビジネスでは赤字に苦しんでいる。それに対して、資生堂は高収益を獲得している。資生堂がプレステージ・ブランドとしての地位を揺るぎないものにできたのは、アジアを含む海外事業担当者たちの忍耐強さと妥協を許さないマーケティング戦略に負っているところが大きい。
開放経済体制が定着するのを粘り強く待ちながら、終始一貫して、資生堂はブランド展開において”三高マーケティング”の基本姿勢を崩さなかった。三高マーケティングとは、ハイクオリティ、ハイサービス、ハイイメージの3つである。その陰には、創業ファミリーの後継者で、後に社長・会長を歴任することになる福原義春資生堂名誉会長の存在がある。福原名誉会長は、長年にわたる北京市との経済・文化交流の貢献を認められ、昨年8月に「北京市栄誉市民」の称号を授与されている。
1978年頃から、「三元筑波」などの商社を経由して資生堂製品は中国に輸出されていた。当時取締役国際部長だった福原義春現名誉会長が、はじめて北京を訪問したのが1981年である。北京市を訪問した福原部長は、北京市より正式に化粧品生産に関する技術援助協力を求められた。文化人としても知られる福原名誉会長は、創業家の事業後継者である。社名の「資生堂」(すべてのものは大地から生まれるの意味?)は、中国の「易経」に由来する言葉である。技術援助を通して北京市民と友好関係を深めるという観点から、福原名誉会長は、化粧品の生産技術援助を約束して帰国した。同年から、資生堂の化粧品が北京市の友誼商店や北京飯店などの大きなホテルで販売されるようになった。
2年後の1983年、資生堂は北京市とヘアケア製品に対する生産技術協力協定に調印。「華姿(ファーツー)」というブランド名で、北京市の軽工業会社「北京麗元公司」(家電、化粧品、食品などを生産)がヘアケア製品の生産をはじめた。1985年には、同ブランドがメイキャップとスキンヘア製品に拡大、1988年には、高級ヘアケア製品の生産が開始された。
その後は資本の自由化が進み、1988年に合作企業を作ることが認められた。その間に、技術供与先の現地企業が良質な製品を生産する力をつけてきたことから、北京市は高級化粧品生産のために合弁会社を設立したいと考えるようになり、資生堂に対して資本参加することを求めてきた。当初から中国事業を陣頭指揮してきた福原名誉会長は、迷わず会社設立に動いたが、当時のボードメンバーで福原提案に積極的に賛成してくれたのはわずかひとりであったと言われている。
多数の反対にもかかわらず、福原の説得に折れて、ようやく1991年に「資生堂麗源化粧品有限公司」(SLC)が設立された。北京市経済特区の工業団地(現在350社)に入居した第一号企業として、現地ブランドの化粧品”AUPRES by SHISEDO”の生産がはじまった。しかし、国産高級化粧品に対する需要はゼロでのスタートである。
「はじめは当然売れないですね。工場の敷地だけはやたらに広くて、生産設備は遊んでいるわけです。工場のラインを動かす仕事がないですから、芝生の雑草を引っこ抜く毎日。情けなかったですね」(高野幸洋SLC総経理)
(後編につづく)
上の文章は、「中国への日本ブランド移転物語(4)」『チェーンストアエイジ』(2003年5月15日号)の全文である。後編は、5月連休空けに、HPに掲載する予定である。