経営・商学系の大学院で教えることができる教員の資質(『流通情報』 2003年5月号)

 夜間開講の社会人大学院(通称:法政ビジネススクール)を始めてから10年が経過した。筑波大学や青山学院大学とほぼ同時に始めた新規事業であった。法政大学だけで毎年約50人のMBAを送り出している。


卒業生の顧客満足度も高い。OB会が組織されて、業界横断的に活発に動いている。卒業生の中からベンチャー企業で公開を果たした企業経営者(スカイマークの井上社長41歳)を排出するなど、社会的にもプレゼンスが高まってきている。おかげさまで志願者は常に定員の3~5倍以上をキープしている。
入学してくる学生の質も年々高まってきており、法政大学に限れば、企業が学費を負担してくれる企業推薦組が増えている。
 日本でも社会人向けのビジネス教育市場があることがわかったので、後発の大学(日大、中央、明治など)が社会人市場に参入してきた。それ自身は良いことだと思うが、今度は教える側の供給に問題が出てきた。深刻な供給不足である。良質な教員は少ないから、専門職大学院の設置に向けて大学間で引き抜き合戦が展開されている。
 ビジネススクールで教える教員の源泉はふたつである。ひとつは、国内外の経営大学院でドクター号を取得した直後の若手研究者である。法政大学がビジネススクールを始めたころは、学部教員のなかで社会人経験があったり、企業で働いたことはなくとも、わたしのように企業と共同研究をしたり企業から委託研究を受けてきた人間がビジネス教育にあたっていた。いまは、海外の大学院で教育を受けたドクターが日本に帰ってきてビジネススクールの専任教員となっている事例が多いように見受ける。
 最近では、ビジネスマンが日本の経営大学院でドクター号を取得するケースがでてきている。法政大学の場合も、1995年に日本ではじめて経営学専攻の夜間ドクター課程を作り、この制度で養成した新しい研究者層を客員教授として活用している。他大学で博士教育を受けた女性を、今年は専任教授として採用した。それ以外に、博士号を持っていなくとも、充分に社会人学生に対して教育ができるスキルを保持している元ビジネスマンは少なくない。こうした人材も大学院側からは希少な存在であるから、いまは引っ張りだこである。
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 ところで、どちらの源泉から来た教員がより多く、ビジネススクールに貢献できているのだろうか? 純粋培養の経営学博士と社会経験豊富なビジネスマン教授とでは、長所・短所がそれぞれにある。ビジネスマン経由の大学教員は、日本の場合、数年で貯えてきた過去の知識資産を食いつぶしてしまう傾向がある。ビジネスの世界は動きが速いから、現場を数年は離れてしまうと、最先端の実践についていけなくなることがある。もちろんそうではなくて、リサーチ面で大いに活躍している教員が多数派ではある。
 純粋培養の研究者にはこれとは異なる問題がある。ビジネススクールの教育には時間的、精神的に負荷がかかる。大学院時代に理論研究で貯えてきたノウハウを、教育とマネジメントですり減らしてしまう事態に悩まされかねない。このタイプの研究者にとってのチャレンジは、実践との緊張関係である。研究者としての初期の成功は、どれだけたくさんの研究論文を学会誌に掲載できるかにかかっている。テーマ選択に関して、院生時代の優先順位は、実践的な要求よりも論文の高い生産性におかれる。指導教授の下で研究をしているうちはよいが、30歳も半ばを過ぎれば、テーマ選択についても独り立ちが求められる。書かれた事例をいくら蓄えても、経営の本質と向き合うことはできない。厳しい転換の時代を乗り切って、実務的なセンスを持った研究者に成長していくのには、それまでとは異なる努力の方向性が求められる。
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 以上の議論は、実は不毛かもしれない。というのは、大学院での教育研究でどちらのタイプの教員が高いパフォーマンスを残すかは、教員になるまでの経路(キャリアパス)に依存しない可能性があるからである。このごろそう考えるようになった。海外の状況をよく知らないので、以下は日本の特殊事情を反映した直感に基づく類推になるかもしれない。わたし自身の経験から来た偏見であるとすれば、どうかお許しをいただきたい。
 日本人の経営学者、とくに商業・サービス分野およびマーケティング論を講じている大学教員のなかで、優れた業績を残している学者の多くは「商家の出」である。具体的な人名を挙げることは差し障りがありそうなので控えさせていただくが、とくに関西出身の著名な経営学者はサラリーマンの子弟であることは希である。この観察結果は、小サンプルであり大いに偏りがある可能性が高い。しかし、「商家」を「工場主」(独立企業家)まで広げてみるとよい。幼少期に経営(「商売」という呼び方が筆者は好きである)を肌で感じてきた人間とそうではない人間とでは、企業や経営者を見る目に雲泥の違いが出てくる。皮膚感覚の問題である。商売のセンスを鍛練するのは、幼少期の家庭環境であり、人間関係によって陶冶された特殊な形質である。夜逃げや倒産、一家心中や投身自殺、成功による慢心や従業員の反逆を子供ながらに見て育った筆者には、そんな気がしてならない。
 商業やサービス業の経営者には、顧客の要求や従業員の声にならない希求を敏感に感じ取れる感覚受容器のようなものが必要とされる。ときには、不条理な要求に対して、経営者は立派に人と組織を動かしていかねばならない。経営者の直感と行動様式を本能的に理解し整理する能力は、マネジメントを科学技術として教え込む研究教育では不十分である。理論一辺倒の科学者に仮説検証型の研究はできても、創造的な事実の発見はできない。
 ビジネススクールの教員としてAクラスの人材を採用しようと思えば、冗談ではなく、候補者の家庭環境や生い立ちを調べてみたほうがよい。採用場面でそのようなことをまじめに判断材料として持ち出すことはできないが、それを承知の上でこうした主張を繰り返すのは、研究成果や論文偏重の教員採用方式に対する疑問からである。超一流の教授は、綿密な分析力と仮説構築力を兼ね備えている。そのことに議論の余地はないが、ビジネスマンを教育する者に対しては、経営者を見る優しいまなざしと企業経営がめざすべき理念・理想に対する熱意のようなものを採用基準としてより優先すべきである。そう感じているのは私だけだろうか?