2004年11月7日の夕刻(午後15時27分)は、わたしのマラソン人生で最悪の瞬間だった。
*2024年12月3日、この記事に少し手を入れている。部分的に間違った記述があるからだ。
同世代の宿敵(ライバル)郷ひろみが、かつて「ニューヨークシティマラソン」で記録した3時間44分に少しでも近づきたい。そう思って走り始めたのが、10時15分すぎ。それが5時間を大幅に超過するという結果に終わった。完走できた16回のマラソンの中で、2番目に悪い記録だった。
スタート地点のスタントン軍事基地構内には、約3万人のランナーが号砲が鳴るのを待ちかまえていた。10時少しすぎである。3万人のランナーは、自己申告タイム別に、青(~4時間)、緑(~5時間)、オレンジ(5時間~)の3色に分けられ、およそ5分おきにスタートすることになる。日本国内で参加人数が最大のフルマラソンレースでも、1万2~3千人である。荒川と青梅が一万人を大幅に超えているが、ゼッケンが色別にスタートするのを見るのは、さぞかし壮観ではあろう。
もしかして起こるかもしれないテロ行為を阻止するために、櫓(やぐら)と軍用トラックの上には、物々しくスナイパー(狙撃手)が銃を構えて陣取っている。そういえば、日本国内でも、米軍基地の入り口で荷物の中をチェックされるレースがある。毎年1月に横田基地(東京)で開催される「フロストバイト・ロードレース(ハーフ)」のことである。横田基地の米軍人に荷物をチェックされたことがある。迷彩服などを見ると、独特の雰囲気になるものだ。なるほど米国はイラクと戦争中の国なのだと思った。
出発直前のランナーたちは、体が温まっていない。古い毛布や汚れたジャンパーをまとって寒さをしのいでいる。それでも、とにかく凍えるほどに寒い。戦争中でテロ防止対策なのか、安全のために今年は出発の3時間前、午前7時に選手たちは全員が招集をかけられている。
朝方は5℃前後で、手のひらがかじかんでいる。鼻水が出てふるえが止まらない。簡易トイレはたくさんあるが・・・世界最大の簡易トイレ数などだそうだ・・・自慢することでもないだろう。各ボックスには10人以上が並んでいる。
ほぼ皆が待てなくなるから、自然の摂理にしたがって、応援客がチャーターした見学バスにランナーたちは、おしっこを引っかけている。2度もNYシティマラソンを走ったことがある「アイリスオーヤマ」の岡本室長からは、「先生、橋の上から黄色い液体が降ってくるかも・・・」と言われたのは、このことだったのか。納得することになった。
ようやく走り始めたら、雲がほとんどない快晴である。暖をとるためにまとっていた古着やナイロンのゴミ袋が、そこかしこ路上に散らばっている。樹木や垣にかかっているトレーニングウエアなどもある。洗濯して使えるものは、クリーニングしなおして貧しい人たちに配るのだそうだ。ぼろ切れでも集めにかかっている人がいる。チャリティの国、アメリカらしい風景ではある。
まずいことに、気温がぐんぐん上がってきた。街角には、応援のために手を振ってくれる人垣が途切れない。NYシティマラソンの素晴らしいところである。ふつうならば沿道の応援から元気をもらうところだが、20キロすぎたあたりでは、例年より気温が高くなった。18~19℃前後だ。走っていて、体感気温が高いのでもはや余裕がない。8℃~13℃を想定していたので、わたしの最適温(10℃前後)よりはかなり条件が悪くなってきた。
雪国生まれの私は、暑さにすこぶる弱い。日陰を選んで走るように心がけるが、ランナーの数が多く、直射日光を浴びるはめになる。青色(~4時間)で申告したせいか、途中でペースメーカー(3時間50分と4時間)に抜かれ始めた。10キロ地点を過ぎたあたりからは、俄然足取りが重くなってきた。
米国では距離の基本は「マイル表示」(1.6キロごと)である。マイルをキロに換算しながら走らなければならない。走った後で何人かの日本人は、「キロ表示がほしいよね」とぼやいていた。確かに「6マイル=1.6×6=9.6KMくらいかな」と換算しながら走るのはつらい。わたしが、何となくペースがつかめなかった原因の一つではある。
時計を見ると、6マイル(10キロ弱)地点で55分もかかっている。スタートから2~3マイルは、他のランナーと交錯したりで走りずらかった。舗装面がでこぼこで、きれいなアスファルト道路を走り慣れた日本人には、道路のくぼみや水たまりはたまらなく辛い。常に路面をチェックしていないと怖くて走れないのである。
* * *
行きの飛行機の中ではうつらうつらしていたが、あまり深くは眠っていない。アルコールを避けたせいか、なんだか中途半端な睡眠の取り方になった。ホテル到着から20時間後には、出発地点までのバスが迎えに来ることになる。ガイドさんの説明を聞かなければならない。とにかく走り始めるまではめまぐるしくて、時間的にも心理的にも余裕がない。
もちろん体が重たいので、はじめはゆっくり走っていた。前半から無理をしないことにしたのはよかったのだが、ラップタイムは予定を大幅にオーバーし始めている。そうなると気が焦ってくる。それがペースを乱すことにつながる。20キロ地点(10キロごとにキロ表示はあったらしいが、見逃していた)ですでに、郷ひろみの記録には遠く及ばないことが明らかになった。1時間57分が経過。中間地点(21キロ)で2時間をわずかに超過。
こんなときはすぐに気持ちを切り替えて、目標をサブフォー(3時間台)に落とすべきなのだが、もはや気分がしぼんでしまっている。そうなると足が前に出ていかなくなる。長距離ランナーならわかっていただけるだろう。最後の10キロは、まさに「気持ちで走る」のである。目標を失って「気持ちが切れて」しまえば、あとは立ち止まりたい誘惑と戦えなくなる。
これまで8年間で、16回のフルマラソンを完走してきた。その内、このハードルを乗り越えて、立ち止まらずに完走できたのはわずか6回である。残りの10回は、32キロ付近で歩き始めてしまうことになった。残り10キロのかべである。
* * *
26キロ地点。マンハッタン島への入路となる橋(名前を忘れた)を降りてこようとしたとき、下り坂の途中で右足のふくらはぎがピクリと反応した。
今春3月の荒川市民マラソンで、両足を痙攣して動けなくなったことが頭をよぎる。あのときは、32キロ付近で両足と背中の筋が痙攣して、芝生に寝ころんで10分間は動けなくなった。それでも、その後は這ってゴールインした。4時間38分。この3年間で最悪のタイムだった。その再来か?
応援の人混みが迫って来ている。そばに芝生や休めそうな場所はない。「休めそうな」と考えたとたんに、足が止まってしまった。まだ26キロ地点(16か17マイルと計算していたような)である。
あとは、マンハッタン島の直線道路の中心街を歩き、敷物をかぶせたようなブルックリン橋を渡り、黒人街のあるハーレム地区を手を観客に振りながら走り歩き、紅葉が美しいやや起伏のあるセントラルパークをゴールまでの長い長い導入路だと感じながら走った。いや半分は歩いた。
NYシティマラソン、42.195KMのゴールは遠かった。
いままででいちばんゴールが遠かった気がする。やっとの思いでたどり着いたとき、ふたたび寒さで凍えながら考えたのは、「フルマラソンは、準備不足でなおかつ無理をして走るものではないな~」という当たり前の反省だった。
将来NYシティマラソンを走られるかたにひとつだけアドバイスできるとすれば、「まちがっても、前日(6日)にJFK空港に到着するツアーには参加なさらないこと」。JTBのツアーには、わたしと同じ”たわけもの”が9人(108人中)いたらしい。そのことも、前もって知らされていた。
他の方の記録はわからないが、たとえ完走しても後のダメージは小さくなかっただろう。わたしはいまだに、NYシティマラソンの後遺症に悩まされている。2週間ちょっと経過した今でも、右足のふくらはぎに軽いしびれがある。持病の腰痛は悪化していた。バンテリンが離せない。
身体の後遺症に加えて、心理的に痛かったのは、翌日のNYタイムズのスポーツ欄に、わたしの完走タイム(記録)が掲載されていなかったことである。完走者たちにとっては、<完走記念メダル>と<記録証>がおみやげである。メダルはわたしの手元にあるので、まちがいなく証拠は残されているのだが、いかんせん公式記録が残されていない。
前日の大会エントリー時に、ナンバーカードが封入されたビニール袋に入っていた「大会支給チップ」(FR・・・・・・)を、日本から持参した自分の「イエローチップ」(CC・・・・・・)に変更した際に、たぶんボランティアの女性がデータ入力をさぼったからだろうと思われる。
大会本部の支給チップとわたしのイエローチップを、その場でデータ入力してくれなかったのである。あまり英語がうまくないアテンドのJTB社員に、しつこく「確認してくれ」というべきだったかもしれない。
ボランティアの女性(老人)は、便せんに手書きで、「Bchip#」 VS「 Ychip#」対応表を作成していた。米国人のことだから、もしかすると起こりそうな予感はしていたのだが。すくなくともボールペンでチェックされていた約20人は、わたしと同じ運命をたどったのだろう。
そう思うと、5時間を切らなかったから、まあ許せるけれど。これがサブフォーでも達成していようものなら、烈火のごとく怒るか、死ぬほど落胆するか、そのどっちだったろうか?