フロッピーの中の回想: 故橋本寿朗教授追悼号によせて

コンピュータのファイルを整理していて、今し方(朝5時)、あるファイルを発見した。2002年に亡くなった盟友、大先輩・橋本寿郎への追悼文である。


経営学部長(2002年春~)として「経営志林」(法政大学経営学会)の特別号に寄稿した文章である。忽然とPCから現れたフロッピーのファイル名は、「橋本追悼」となっている。全文引用する。迷いの多い今、寿郎さんがわたしに何を呼びかけているのか?

 <故橋本寿朗教授追悼号によせて>(経営志林の原稿 原文のまま)
 人間の死は、突然おそってきたかのように見えて、不思議と何らかの予兆があるものである。正月の箱根駅伝で、法政大学チームは、昨年度の区間記録保持者でエースの徳本くんが故障でリタイアするという不運に見舞われた。2区以降の走者にタスキをつなげず、泣きじゃくるキャプテンのテレビ映像を見た直後、わたしは橋本さん(生前も「さん」付けだったので、こう呼ばせていただくことにする)に電子メールを送った。それは、暮れに寿朗さんから受け取ったメールへの返信でもあった。
 12月の教授会で、橋本さんは経営学部の次期学部長に就任することが決まっていた。12月30日のメールは、寿朗さんらしくなく妙に力がはいった文章であった。

> 小川君、教授会主任については奥西君が主任を快諾してくれました。
> 日本経済・日本経済史研究者として first rate の position を維持し、
> 政府・学会・地域等にそれなりの貢献を果たし、国際的な役割を分担し
> ながら学内行政で応分の負担をするとなれば、いずれも学者の当然の役
> 割と思いますが、時間をどうやりくりするのか頭が痛いところです。(原文のまま)

 その日(1月2日)の午後にわたしが橋本さんに書いたメールは、昨夏の病気(通風)再発を心配してのものだった。

> 橋本さん 文面 肩に力が入っていることが気になります。
> 箱根駅伝の徳本くんにならないように。
> 彼は見ていて とても気の毒でした。(泣くな!徳本ですが)
> 体調不良 力の入りすぎ 監督の判断ミス。
> 不運が重なったようですが 人ごとではありません。

 病巣(大動脈剥離)は別のところにあった。ボアソナードタワー18Fの廊下で倒れた橋本さんが、1月15日の夕刻、日大病院の救急治療室で息を引き取るまでわずか2時間。奥様の瑠美子さんはじめ、ご家族と別れの言葉を交わすことなく、二度と帰らぬ人となった。
 橋本さんの研究者としての業績については、わたしごときが敢えて解説するまでもないだろう。橋本寿朗は、日本を代表する第一級の経済学者であり、経済史家であった。作品の質量の豊かさと水準の高さは、本号の業績一覧表にリストアップされているとおりである。エコノミスト賞を受賞した『大恐慌期の日本資本主義』(1984 東京大学出版会)をはじめ、最後の著作となった『デフレの進行をどうとらえるか?』(2002 岩波書店)まで、数多くの論文と著書を残している。驚かされるのは、死後に発表されることになった論稿の多いことである。まるで、自らの死を予知してたくさんの原稿を仕上げていったのではと思われるくらい、最期のときを研究と執筆活動に当てていた節がある。労災の認定こそできなかたったが、誰の目にも明らかな過労死である。
 橋本さんは、産業界・政府関係の仕事にも深く関わっていた。お通夜、告別式、お別れ会には、研究者、学生、友人たちに混じって、たとえば、橋本さんが社史をまとめたセゾングループの元総帥・堤清二氏など、高名な政財界人が弔問に訪れていた。歴史家としての洞察力を現実の日本経済再生に活かすのが、まちがいなく橋本さんのつぎの仕事であった。それが実現できなかったことを、周囲の人たちは大いに惜しんでいる。本人にとっても、最大の無念であたったはずである。
 最後に、個人的な感慨を述べておきたい。長年、わたしは寿朗さんとテニスでダブルスのパートナーを務めてきた。ダブルスのペアは、相手の性格がよくわかるようになる。技術や能力ではなく、お互いの心の動きが手に取るようにわかってくる。強烈なサーブと強気な攻めが寿朗さんの特徴であった。しかし、とくにディフェンスの面で、橋本さんは欠点の多いプレイヤーでもあった。願わくば、もう少しご自分の命を守ることに徹してくれていれば、そして、長生きできたならば、やや畑違いのマーケティング研究者であるわたしなどとも、生涯に一度くらいは、研究面でパートナーを組めたかもしれない。そう考えると、いまさらながらとても残念である。
 寿朗さん、ご冥福を祈ります。
                             経営学部長 小川孔輔