重松、小川対談記録「業態成熟化と新業態の創造:専門店ビジネスにおけるポジショニングと競争戦略」(2007年12月14日)

昨年末に、法政大学(新富士見校舎)でSC協会の講演会が開かれた。シリーズ第4回の講演で、招待講師は、㈱ユナイテッドアローズ重松理会長(日本ショッピングセンター協会副会長)であった。


当時はわたしとの対談であった。対談の最中にも、困った癖でメモを残している。対談メモを編集して、最初の部分を皆様に紹介したい。
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1 アローズが生まれるまで(学生時代~1990年)
(1)大学卒業からビームス入社まで(~1976年)
 重松会長は、湘南(逗子)の生まれである。子供のころから、米国文化の洗礼を受けていた(実姉が横須賀で米国人と結婚)。大学は明治学院大学。5年間も!通うことになる。洋服を買うために、アルバイトの日々に熱心すぎたのが原因らしい。
 卒業後に、婦人服アパレル(ダック)に就職。アパレルの営業企画チーフを務める。覚えていらっしゃる方もあるかもしれませんが、当時は、第一次サーファーブームであった。大学時代から、米国西海岸ファッションの影響を受けて育つことに。わたしの友達もそういったふうなのが多かった。

(2)大学卒業後に、ビームスに入社(1976年2月)
 BEAMS創業者の設楽悦三(現社長の父親)にプレゼンをしたことがはじまりであった。ビームスの設立に参加して、原宿で6坪のショップ開店。ビームス本店「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」の店長を任された。当時のビームスは、輸入比率の高い「セレクトショップ」であった(アメリカンカジュアルの店)。
 2006年時点で、ビームスは、国内・香港に49店舗、年商446億円である。ここで13年間働くことになった。創業11年目(輸入比率50%)にして、セレクトショップのビジネスモデルを確立できた。と自分は思っている。

(3)ビームスで学んだこと
 簡単に言えば、それは商売の「スタビライザー機能」である。ひとつのテーストでは、ビジネスが安定しないことを身にしみて感じた。具体的には、80年代から90年代にかけて、ファッションのスタイルが、西海岸(VAN)から東海岸(JUN)に移った。そして、その後は、イタリアン(ヨーロピアン)に流行が変化していった。これに自らが適応できなかった(売上を落としてしっまった)。90億円まで売上は伸ばしたが、その時点で「スタビライザー機能」を発見した。「良い波」に乗れるように、米国+欧州のブレンドが必要である。米国(アメカジ)一辺倒では、危険すぎる。男子と女子も同時に扱うことはそれと同じ理屈である。
 「衣」は充分にやったので、+食、住(遊)に挑戦したいと主張した。しかし、オーナーの設楽氏はそれを認めてくれなかった。結果として、独立することになった。

2 ユナイテッドアローズ創業のとき(39歳~)
 創業時から3度の困難をどのように乗り越えたかについて質問をしてみた。以下のように、短い期間に、ユナイテッドアローズは、わずか15年間で、3回のつまずき(スタンブル)を経験している。

(1)1990年 創業時の困難
 当初は、アメカジに対して欧州スタイルであった。顧客は男性80%、女性20%。カジュアルではなく、ドレスを売りたいと思ったので、初年度は5000万円のドレス展開であった。もちろん、開店当初は、ワールドの支援もありそれなりに話題になった。が、カジュアル無しのドレスのみの展開だから、すぐさま壁に突き当たることは明白だった。現実的な対応として、カジュアルも扱うことに事業を転換した。

(2)1992年、「ブルーレーベル」の発売
 ドレス+カジュアルで、ブルーレーベルを発売した。準備万端で挑むことになる。ラジオでの宣伝方法を考えた。ターゲットが聞いていそうな「J-WAVE(FM)」で、ラジオ広告を打った。私もこの番組は車を運転しながら聴いていたような記憶がある。
 直後に原宿本店出店。当時ワールド畑崎社長へ謝罪に行った覚えがある。というのは、計画の70%しか売れない状況だったからである。重松本人には、満を持して企画投入に、売れない理由がわからない! 結果として、単に天候要因だった。販売が一ヶ月後ろにずれ込んだだけで、発売一ヵ月後には、いきなり売れるように。
 その後は1999年まで、右肩上がりで破竹の7年間が経過した。UAにとっては、一番良い時代であった。

(3)1999年(株式公開後にユニクロブレーク)
 直後の2000年に、ユニクロがブレークした。定番のコア商品だった「ストライプTシャツ」(UAで¥5800)がユニクロではわずか¥1000だった!
 「値段を見て、実にショックだった」。「これでは勝てない!」と慌てて、売れ筋商品のストライプTシャツをすべてカットした。これはすぐに大失敗とわかることになる。同じ商品でも、店舗がちがうとお客さんが買う理由が異なるということにすぐに気がついた。
 ユニクロは、良質大量販売ビジネスだった。直接的には、UA(少量販売)とバッティングはしない。一年後にまたストライプTシャツを復活させた。わたしも、MUJIでも同じ様子(動揺)を見た。UAからIY、イオンまで、ユニクロの、快進撃に経営者たちは実に動揺していた。

3 新しい課題(2007年)
(1)ブランド統合、新ブランドの発売
 UAの顧客像は、3つの想定ブランド階層から構成されている。すなわち、
 ・ラグジュアリー(ブランド) 「クロムハーツCH」(10%)
 ・トップトレンド(ブランド) コア顧客「ユナイテッドアローズUA」(50%)
 ・ミッドトレンド(ブランド) 「グリーンレーベルGLR」(40%)
 新たに、これに加えて、来年度からは、「ディフュージョン宣言!」を試みる。ロワートレンド(ブランド)、すなわち、ポイント(ローリーズファーム)などがいる場所に進出する時期に来ていると判断している。
 日本の郊外SCで、ここを狙っていきたい、イングやハニーズとは異なるが、「エントリーマーケット」に可能性はあるとみている。

(2)55歳の会長選択
 ビームスの創業時に、いまの仕組みはオーナーに任されて、ひとりではじめたことである。BEAMS13年+UA17年=計30年を充分にすごしてきたと思っている。年商500億円、55歳で社長を降りることを決意した。ずいぶん前のことである。UAのDNAを探すこと、店頭顧客主義を残せるか?が自分の課題である。