㈱しまむらの島村恒俊(のぶとし)オーナーは81歳。3月8日に82歳の誕生日を迎えられます。埼玉県比企郡吉見町に奥様と二人でお住まいでした。
4年前に相談役を退いてからは、株主の立場からしまむらを見守っています。年に数回、藤原会長と後藤専務がしまむらの業況を説明に、この吉見町まで来られるそうです。
ご夫妻は、大沼を見下ろす眺めのよい高台にお住まいです。島村オーナーは毎朝4時に起床。土手際の道を、暗いうちに4~5キロ、毎日ウォーキングしているそうです。以前はジョギングをしていたのだそうですが、ひざを痛めてからは、歩くだけにしています。お昼に奥様お手製の親子どんぶりをご馳走になりましたが、実によく食べる「ご老人」でした。ゆっくり食べますが、看ていて、とても81歳の食欲ではありません。
「このひとは万事に念が入って、とても几帳面なのです。準備体操と腹筋をして、それから歩きに出るのです。その間、わたしはまだ寝ていますが」(笑いながら、奥様)。
大きな立派な邸宅なのですが、しまむらの創業者らしく、生活はとても質素な感じを受けました。「一般消費者から大衆的な衣料品(の販売で)お金をいただいているのに、そんな分不相応な生活はできませんよね」(恒俊オーナー)。身に着けていらっしゃる背広もスラックスも、おそらくはしまむらの商品です。本当の金持ちは質素にしていて、決して華美に走らないといった印象でした。
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お話を伺っていて予想通りだったのは、会社内での女性に対する姿勢でした。公平さとしごとを女性に任せる態度。そうしないと乗り切れない局面があったのです。昭和42年、しまむらがまだ3店舗のときのこと。従業員50人のころです。男性11人のうち、9名が一挙にやめる事件が起こりました。ある日突然だったそうです。中卒社員(9名)が、大卒社員(2名)の待遇に不満をもったのだそうです。
「首謀者だったやつは、気が小さかったのだろうね。実力主義でやられると、自分の将来が危ないと思ったみたいだったね」(島村オーナー)
その結果、店長と仕入を任せていた男性はわずかに二人になってしまった。しかたがないので、3店舗の仕入は全部自分が担当することに。女性を店長に(伊藤孝子さんもそのひとりで、小川町店の店長)、仕入も一部は女性バイヤーにせざるをえなかったのです。気分的に参ってしまった島村は、十二指腸潰瘍で2週間入院するはめになりました。これがたった一度だけ、人生でつらかったことだそうです。
病院の中でも毎日、店のことが心配でならなかった。自分はいないし、これまでいた男性社員は店を見られない。ところが、退院して帰ってきたときに驚いたことには、女性に任せても売り上げは落ちなかったのです。むしろ、売上が増えていたのです。
いま、しまむらの標準店(350坪)は、女性店長と7人のパートさんで運営されています。実力主義で女性を登用する社風は、この事件がきっかけでした。後に女性の力を積極的に活用し、地方で急速にチェーン展開を進めていきますが、しまむらの原点は、中卒男性社員の氾濫事件だったのです。
日本人とくに女性が、地方の戦後を支えたことがわかる事件ではありました。わたしの母親も、秋田の田舎でまじめにこつこつ働いていました。まわりにもわたしの母のような女性たちがたくさんいました。島村・藤原チームがそうした彼女たちに、どんどん仕事を任せたのです。
同じ小川町に本社があったヤオコーも同じでした。会長の川野さんは、女性たちに売場作りや企画まで任せていました。これも当初は、地方で若くて優秀な男性が思うように確保できないという事情によるものだったと推察されます。ところが、パートで働く女性のほうが、実はある種のしごとに関しては、男性よりも優秀だったわけです。
女性ファッション衣料品のハニーズ(福島県いわき市)の江尻社長も、ラーメンチェーンの幸楽苑(福島県郡山市)の新井田会長も、女性店長や商品企画担当を信頼して、かなり思い切って女性を登用している点は、しまむらとよく似ています。
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本日のインタビュー中(10時~14時)、奥様(千代子さん)が途中からインタビューに参加してきました。笑ってしまうのですが、島村オーナーの発言がしばしば訂正を受けるのです。40年以上も前のことですから、年代がときどき混乱しているみたいです。
実は、今回も一度は面談を断られています。7日の日にご自宅に電話させていただいたときは、「いまさらに引退した人間が・・・」でした。「藤原会長を広告塔にしてきたので、自分はオーナーとしてできだけ控えめにしてきました。メディアで目立たないようにしていたんだよね」と奥様に向って発言。これはテレだと思いますが。
今回のようにしゃべるのは、本当にはじめてらしいです。「どうして、最終的にわたしのインタビューを受けていただいたのですか?」と最後にたずねてみました。電話口で断られた翌日の1月8日、わたしはオーナー宛に手紙を書きました。おくらく11日に手紙を受け取った島村オーナーが、その翌日に直接わたしに電話をくださったのだと思います。
おどろいたのは、わたしが書いた花の本『花を売る技術』(誠文堂新光社、2005年)を半分読み終わっていました。「あまり、目が良くないのですよ」(奥様)。オーナーは、大沼を見下ろす庭で、ご自分で薔薇を作っていました。35株あるそうです。3月8日が誕生日ですから、82歳の誕生日にはキリンビールから薔薇の苗をお祝いに贈ってもらうつもりでいます。お花を贈ったり(本日は白のストックと赤いチューリップを、しまむらのテナントで購入して持参)す、花の業界でしごとをしていることは、なんとプラスに働くことか。ずいぶんとくをしています。
10時から4時間にわたる長いインタビュー。電車で片道2時間、往復4時間。しかも帰りは、取材ノートをまとめていて、西国分寺まで武蔵野線を反対回りしててしまうというハプニングもありました。そして、さらにその先でも乗り過しがありました。
長い一日が終わりました。詳しい話は、雑誌連載のときに紹介します。お楽しみに。