上海滞在の3日目に、上海外国語大学を訪問した。天安門事件の年に、同僚の遠田雄志教授ご夫妻とゲストハウスに2週間滞在した場所である。
当時と比べて変わっていなかったのは、陸上のトラックと日本語学科のビルだけであった。それも大改修工事の最中で入り口が閉鎖されており、建物の中に入ることができなかった。
学生がめいめいに自分の箸と食器を手にもって、のんびりと歩く光景はすでになかった。木造の学生食堂は、立派なレストラン風の建物に変わっていた。われわれが泊まったゲストハウスは取り壊されたて、跡地には10階建てのシティホテルのような洒落た「Guest House」が建っていた。教員の待遇はずいぶんと改善されたとの印象があった。
当時の中国に対するわたしの第一印象は、知的エリート(役人を除く、医者や教員など)が社会の隅っこに追いやられているというものだった。明らかに、文化大革命の影響(後遺症)である。肉体労働(農業・工業など)に比べて、知的労働(文学、教育、そして商業)が職業として”おとしめられた”地位にあった。社会が離陸していくためには、知的な営為に対して充分に報いる制度を必要としていると感じたものである。中国はそれを短期間で、しかも極端な形で実現しようとしている。わたしには、文革時代の反動に見える。拝金主義の横行である。
案内してくれた元上海キリンビールの女性(名門校・復旦大学日本語学科の出身)によると、中国の私立大学はたいへんにもうかっているらしい。経済成長と「ひとりっこ政策」の結果、大学への進学率が急速に高まり、授業料収入が増えて財政的に潤っている。親が子供に投資することが、アジア的な成長の特徴(エンジン)である。中国では(民間の)教育産業が未発達なので、私立大学が教育関連分野で副業に手を染めている。大学が予備校や専門学校の役割を担って、さまざまな分野で多角化事業を興しているのである。
上海外語のような語学大学は、予備校の経営(エクステンション)もさかんであるという。海外に出たい若者のニーズは、ともかくどこかの国の言葉を短期間でマスターすることである。英語はもちろん一番人気だが、日本語は隠れた人気語学である。アメリカや欧州帰りのMBA(もどき)が産業界や大学で高い地位を得ており、ビジネスチャンスにさとい管理職として経済社会を支配しかけている。マネジメントの主力は、上昇志向が強い30代前半の青年たちである。そうした中にあっては、有能な女性も少なくない。
前日(2日)の午後に訪問した「上海交通大学」は、これがまた極端な事例であった。数年前に、上海交通大学が「上海農業大学」を吸収合併して、大学そのものが複合化、大規模化している。交通大学(実際は理工系の大学)が農業分野に乗り出しているのである。要するに、ディベロッパー(土木建設と農地・商業地の同時開発)の業務を大学が手がけているのである。
わたしたちが訪問したハイテク農業団地(上海郊外)は、野菜と花の生産基地であり、同時に植物の流通卸団地をも一体化したエリアになっていた。それだけでなく、同じ敷地内には、交通大学が核となって「組織培養(バイオ技術)」などの実験設備があった。かなり商業サイド寄りのオペレーションであるから、研究開発ではなく生産に近い業務が主力である。
その背景には、土地の収用(転用)が政府の命令でごく簡単にできることがある。国が所有権をもっているので、農地が一夜にして住宅地に変わったりする。実際に、上海新空港周辺では、来年から周辺農地が住宅地と工業地に線引きがしなおされる。農民は耕作地を追われるわけだが、所有権がないので誰もはっきりと文句を言うものはいない。共産主義国家である(あった)ことが、経済成長にとってはものすごくプラスに働いているのである。
わたしは、この国の変化のスピードに感服するともに、やはり13年前に感じた「危うさ」が、高度成長ののちも相変わらず消えていないという印象を持って日本に帰ってきた。バイタリティのある若者が多く存在することが、ポジティブな中国社会の部分である。しかしながら、基本的な人権の欠如、不平等社会(貧富の差)、悪しき拝金主義がこの国を覆っている負の側面でもある。
たとえば、農業や製造業の分野で、いつまで中国が先進諸国に技術面で「ただ乗り」ができるのだろうか? わたしは、試しに一枚10元(150円)で違法CD(日本人歌手、たとえば、松たか子や平井堅のダビング版)を購入してみた。本物と品質はほとんど変わらないが、知的所有権はクリアしていないだろう。同じことは、特許技術や商標権(偽ブランド)などの侵害にも見られる。
どのような社会でも、いずれ成長が鈍化するときが訪れる。そのときがやってきたら、中国の社会には何か起こるのだろうか? いまは成長がすべての矛盾を忘れさせている。しかし、「成長の果実は平等に分配されるべきである」と誰かが主張しはじめたら・・・。ひとびとがちょっとでも豊かさを知ってしまったら、まちがいなくこうした主張が声高になるはずである。
それでも、いまの中国には、わたしたち日本人が失ってしまった未来への希望と底なしの活気がある。