「小川町物語:食品スーパー・ヤオコー(2)」

<小商圏ドミナント戦略>
 学生調査班の評価は、「こんなちんまりした店で、大丈夫かな?」であった。川野社長によると、児玉店は売り場面積が約200坪。母親トモ(現会長)が父親の荘輔が亡くなった後に、八百屋をスーパーに業態転換してから7店舗目の店であったという。


「6店舗目までは出店の翌年には黒字になったが、児玉の店だけは赤字が続いていた」(川野社長)。わたしたちが「大丈夫かな?}と感じたのも、それなりに根拠があってのことである。
 当時のヤオコーの出店戦略は、今で言う「地元密着型のドミナント戦略」である。ダイエーやヨーカ堂が絶対に出店しないと思われる、人口1~2万人の小さな町を候補として店舗展開していった。大手と真っ向から勝負しない方策が、小商圏・地域一番店戦略であった。「大手流通と戦うにはそれしか防衛策がなかった」(川野社長)というが、その後にヤオコーが脇目もふらず”食品スーパーひとすじに”生きることになる条件が、ここで生まれたことになる。ちなみに、ホームセンターでは、「コメリ」(新潟)の「ハード&グリーン」(売り場面積450坪)の業態店がその後に採用している方法である。

 <日本における食品スーパーの位置>
 川野社長からいただいた資料を整理していて気がついたことがある(参考資料:創業30年周年の記念社史『ヤオコー30年のあゆみ』、川野社長の講演録「私たちの商売」「何屋になるか?」)。それは、日本のチェーン型小売業が発展していく過程で、ヤオコーのようなローカル食品スーパーは、一貫して目立たない脇役的な存在であったということである。日本のチェーン小売業の発展は、量販店(GMS)、ホームセンター、衣料品専門チェーン、コンビニエンスストアが先行し、ドラッグストアと食品スーパーが後から追いかけるパターンである。
 一方のドラッグストアは、日本的な独自スタイルで展開する「マツモトキヨシ」と米国流モデルを理想として調剤薬局を経営の軸に据えている「ハックキミサワ」に戦略的な展開が分かれている。もうひとつの食品スーパーマーケットは、基本モデルがそれほど明確ではなかった。草創期に日本的に米国のSM経営をアレンジして成功した「ダイエー」「IY」「ジャスコ(現イオン)」「西友ストア」「ニチイ(マイカル:破綻)」は、出店規制に守られながら(もちろん皮肉を込めての表現であるが)、いびつな成長を遂げたからである。
 隠れた存在であった食品スーパーが、初めて小売業の檜舞台に登場したのは1970年代の後半のことである。「関西スーパーマーケット」(北野祐次社長)と「サミットストア」(荒井伸也専務)が、食品スーパーの使命を「毎日のおかずの素材提供である」と規定したことで、チェーン型食品小売業のミッションが明確になされた(流通産業研究所編(1979)『本物スーパーマーケットの時代』ダイヤモンド社)。
 ヤオコーの経営は、食品SMのフロントランナーであった2社の影響下にあったことはまちがいない。川野社長の講演記録を見ると、関西スーパーの北野社長の思想が色濃くにじみ出ている。しかしながら、現在のヤオコーは、その先の業態に進化しているように思える。「ライフスタイルアソートメント型食品小売業」に向かっているヤオコーと川野社長の個人史を記述しながら、食品スーパーの新しい可能性について整理してみたい。(つづく)