これまでの人生で、わたしは恩師や先輩たちに、たくさんの不義理をしてきた。直面する物事のすべてを、上手に処理することができない場面に出くわしたとき、将来に渡って後悔しないでやりすごす術をしらなかった。今回は、そんな過去の不義理について書いてみた。
(その102)「不義理の系譜」『北羽新報』2025年3月24日号
文・小川孔輔(法政大学名誉教授、作家)
都内の私立大学に46年間務めて、3年前に定年退職しました。皆さんがとても驚くことがあります。それは、他大学で働くことを、わたしが一度も考えたことがなかったことです。アカデミズムの世界では転職が当たり前です。良い論文を書いて業績を上げ、偏差値が高い大学に移ることを研究者はいつも考えています。給与水準や研究条件が良くなるからです。
25歳のとき、大手の私立大学に研究助手で採用してもらいました。そこから40代半ばまで、旧帝大系の国立大学から5回、声を掛けていだだきました。しかし、即刻、その場でお断りの返事をしました。採用担当の先生たちは、きっと驚いたことだと思います。それでも、生意気な若造の行動には、明確な理由がありました。
最初の不義理は、31歳の時でした。大学院時代の恩師が、留学中のカリフォルニア大学を訪ねてきました。目的は、先生が学部長を務めている、関西の国立大学に助教授で移ってきてほしいという依頼でした。一瞬、躊躇しましたが、その場でお断りの返事をしました。不義理だとわかってはいましたが、「もっと大切な義理」があったからです。
助教授に昇進していた大学で、新人教員が海外留学の資格を得るためには、採用後に最低7年間、教育研究業務に携わっていることが原則でした。ただし、例外がありました。先輩の先生たちが留学の権利を保留したときでした。わたしは30歳までに海外留学をしたいと思っていました。先輩に相談したところ、3人の先生がわたしに順番を譲ってくれたのでした。また、特例を認めてくれた大学の寛大な措置に対して大いに感謝しました。
結果的に、恩師への義理より、同僚と大学に対する義理を優先させたのでした。この時点で、「他の大学には移らない」と心に誓いました。同時に、大学や同僚の先輩たちから受けた恩に報いるため、大学の社会的な評価を高めることに貢献しようと思いました。
その後、学部長として、6つの新設学部(学科)と3つの大学院の創設に関わりました。入試改革にも携わりました。大手私大として初めての「地方入試」や複数学部に跨る「入試問題の共通化」、社会人向け講座をスタートさせました。結果として、大赤字だった大学の財政は潤うことになりました。収入増は、モダンな新校舎の建設に投じられました。
ある日のこと、親しい先輩の教授から電話が掛かってきました。「小川さん、わたしの後任で学会長をやってもらえないかな」という依頼でした。またしても不義理をしてしまうのですが、これにも即刻、断りの返事をしました。大学の業務から解放され、本当にやりたかったこと(物書きに転じる準備)を実現するチェンスが巡ってきていたからでした。
権威ある学会で会長に就任することは、とても名誉なことです。でも、学会長への就任を固辞したのは、「やらないことを先に決めること」を、恩師への不義理で経験していたからでした。学会長の仕事ができる人は、わたしの他にもたくさんいるはずです。わたしが断っても、先輩の教授はそんなに困ることはないだろう。そう思って即答したのでした。
ここから学んだことは3つでした。①自分の地位や名誉より、自らが所属する組織の社会的評価を優先させること、②依頼された仕事が、本当に自分にしかできないことなのかどうかをよく考えてみること、③原則を決めたら絶対に例外を作らないこと。原則を破ってしまうと、他の誰かに嘘をついてしまうことになるから。
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