地元紙への連載が、今月号で98回になりました。小野さん(当時、秋田県立図書館長)から推薦をしていただき、『北羽新報』の連載が8年前に始まりました。2025年新春号(1月)で、100回に到達します。これを機会に、これまでの連載コラムを書籍化してみようと思っています。いかがでしょうか?
静岡県立大学の大久保あかね先生からは、「もしかしたら!と考えていました。激動の10年の記録ですから。読み返すのも感慨深いかと思います。写真付きでお願いします」と激励の返信をいただいています。再び、小学館スクェアからでしょうか?
「秋田の冬を味わう」『北羽新報』2024年11月25日号
文・小川孔輔(法政大学名誉教授、作家)
この季節になると、秋田県人のわたしは「きりたんぽ」が恋しくなる。大人になってからも、寒くなるときりたんぼ鍋が食べたくなる。子供のころからの経験で、カラダに染み付いた食の遺伝子なのだろう。
ところで、能代の出身者にとって、「きりたんぽ」ではなく、むしろ「だまこ」が冬場の鍋の主役だった。故郷を離れて55年になるので、「きりたんぽ/だまこ事情」が地元でどうなっているかはわからないが、実家の鍋の中身は、100%だまこだった。
わが連れ合いは、生粋の江戸っ子である。東京下町葛飾の生まれだが、わたしの食の好みもあって、きりたんぽ鍋よりだまこ鍋を好んで食べる。市販のものでパック入りのだまこが、いまは都内のスーパーで入手できるようになったが、わが連れ合いは、わざわざ陶器の窯で炊いた新米をすり鉢ですりつぶして、塩水でだまこを丸めて作ってしまう。
秋田の実家では、新米をすりつぶしてだまこにするのは、冬場の子供たちの仕事だった。だから、千葉の旧宅で3人の子供たちと一緒に住んでいたころは、だまこを丸めて作る係はわが子供たちだった。だまこ好きの実家の伝統は、わが子にも引き継がれることになった。
30年ほど前のことになる。能代出身の堀騰(のぼる)さんが、江東区の門前仲町で「男鹿半島」という秋田料理店を経営していることを、大学時代の友人から聞いた。一緒に男鹿半島できりたんぽ鍋を食したところ、ご主人の堀さんがわが両親の知り合いであることが判明した。その後は年に数回、友人や大学院生を男鹿半島に連れて行くようになった。
友人や院生たちは、きりたんぽ鍋を堪能することになるのだが、彼らがそれ以上に喜んでくれるのは、秋田の珍しい食材である。冬場のコース料理には、「さもだし」(ナラタケ)と「とんぶり」(ほうき草の実)が必ず出てくる。さもだしは煮物で、とんぶりは鉢底に短冊状に薄切りにした長芋が沈んでいて、表面にはうずらの卵が乗っかっている。その3つをかき混ぜて食べる。
秋田の人にとっては、その辺のスーパーでふつうに売られている食材ばかりだが、ほとんどの人は、きりたんぽ以外の秋田料理を食べたことがない。だから、さもだしやとんぶりは生まれて初めて食べる食材になる。つぎに出てくる「いぶりガッコ」は、いまや秋田のソウルフードとして有名になったが、「なた漬け」(ダイコンのこうじ漬け)や「ハタハタの飯ずし」は初体験になる。
そして、竹の筒に2合入った秋田の地酒「高清水」を2~3本飲み切った後に、きりたんぽ鍋が登場する。説明が必要なのは、白神ねぎと三関セリである。白神ねぎは、能代市河戸川地区の特産品である、三関セリは湯沢産で、茎だけでなく根っこも美味しく食べる。
その昔は、セリに細かな砂が付着していた記憶があった。いまのように冬場に温室で栽培するのではなく、セリは田んぼの畦に植えていたと聞いていた。そういえば、噛むと砂利が混じっていたようだが、髭状のセリの根っこと一緒にそのまま食していたものだ。
そんな話を友人や院生たちに伝えて、一緒にきりたんぽの鍋を囲む機会を楽しんでもらいながら、秋田の食文化に馴染んでいただくことにしている。(能代市追分町出身)
コメント