【感謝とお知らせ】「(株)ロック・フィールド」創業者、岩田弘三名誉会長、長い間ご苦労様でした。

 「(株)ロック・フィールド」の古塚孝志社長の名前で、一通の挨拶状が神田小川町の事務所「オフィスわん」に届いていた。第52回定時株主総会で「新たな組織体制」が発足したご報告だった、手紙の最後には、つぎのような説明書きが付されていた。
 (ご連絡)「弊社は、デジタル環境への対応と紙資源の節約のため、新経営体制に関するご挨拶状の郵送を廃止しておりましたが、本年につきましては、創業者の取締役退任の節目としてお送りしました。本年以降は従来どおり、当社ホームページでのご案内とさせていただきます」
 

 創業者の岩田弘三さんが、経営の第一線を退くことになった。すでに昨年時点で、岩田さんは名誉会長に就任し、実質的には経営の場から離れていた。本年7月の株主総会で、ロック・フィールドの経営から完全に引くことになった。
 1972年のロック・フィールド創業から2023年の役員退任まで、51年間に渡る会社経営での激務、奮闘。1965年のレストラン「フック」(RFの前身、当時25歳)の設立から今日に至るまで、日本の社会と総菜業界への貢献、長きに渡り、本当にご苦労様でした。
 個人的には、23年前の出会いからを振り返ると、とても寂しい気持ちになる。
 
 わたしは、2001年1月12日(金)に、雑誌の取材で初めて岩田さんにお会いした。『チェーンストア・エイジ』(現『ダイヤモンド・チェーンストア』)の「当世ブランド物語」という連載の記事を書くためだった。
 関西弁の早口で、東北人のわたしには、すぐに理解できないジョークを交える岩田さんには、いつも圧倒されていた。しかし、なぜか、最初から岩田さんとは「馬が合う」感じだった。岩田さんの方が年齢は一回り上だが、周りの人たちからは、「岩田社長と小川先生は、どこか見た感じ、風貌が似ますね。年の離れた長男と末っ子みたい!」とよく言われていた。
 とりわけ、わが息子(由くん)とその嫁さん(奈緒ちゃん)は、わたしたちの話し方や身振りが「酷似している」と笑われた。いまでも、そのことが食卓の話題になることがある。
 ところで、岩田さん(ロック・フィールド)との出会いがなければ、長男の子供たち(紗楽さんと諒くん)はこの世に存在していない。わたしたち夫婦への最高の贈り物である。感謝。 

 いまから振り返ってみると、そのときの社長室長が中野郁夫さんだったことが幸運だった。中野さんは、「クリザール・ジャパン」(当時は「クラシック・ジャパン」に勤務)の海下展也副会長と同級生だったからだ。海下さんは、わたしにJFMA(日本フローラルマーケティング協会)を始めるきっかけを作った人だった。ここでも、人と人と縁に助けられた。
 中野さんも、岩田さんと一緒に「ロック・フィールド」の顧問(参与)を退任することになる。中野さんには、ライター(物書き)として大いに感謝している。わたしと一緒に、2022年に『青いりんごの物語:ロック・フィールドのサラダ革命』をまとめる中心的な役割を果たしてくださったからだ。
 中野さんがいなければ、「青いりんご=ロック・フィールドの50年史」は完成することができなかっただろう。岩田さんの番頭役を、中野さんは30年間近く勤め上げられた。良き経営者には、必ず素晴らしい番頭さんがいるものだ。

 岩田さんは、生まれ故郷の神戸の街で、余生を静かに楽しんでください。中野さんも、新しい職場での活躍を祈ります。わたしは、いま少しの間、物書きとして頑張ります。
  

 
 

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