【マラソン、ご報告】美瑛ヘルシーマラソン(15回目の出場)、2時間23分07秒でゴール。

Day Watch

 冒頭の写真は、「ペンションWE」の岩崎さんが、わざわざ過去の宿帳を繰って調べてくださった宿泊記録(初日)である。メモの数字は、奥様の筆跡である。
 日付を見るとわかるが、6月開催の「丘を走るマラソン」は、今年が15回目の出場になる(メモ用紙にはないが、令和6年は6月8日からの宿泊)。平成10年(1998年)12月27日が、はじめての宿泊日だった。あれから26年が経過している。
 冬の12月にも、年越しで4回ほど宿泊している。取材とか何か別の目的でもあったのだろう。9月にも一度、ここの町を問している。今回がちょうど20回目の美瑛町訪問になっていた。
  
 ところで、2023年美瑛ヘルシーマラソンのリベンジに成功した。かつての記録と比較すると、タイムは比べ物にならないが、復活後のいまのわたしには、これで充分である。
 次男の真継にも、2024年のハーフは40秒差で勝利できた。これにて勝ち越して、7戦で4勝3敗になった。2024年のハーフの記録は、わたしが2時間23分07秒(ネットタイム)である。
 グロスタイムでは、父親のわたしが、2時間24分30秒(990人中715位)。次男の真継は、2時間25分10秒(295人中218位)だった。昨年は、わたしが2か所の「心臓破りの坂」で歩いてしまった。昨年よりは約30分ほど記録を短縮できている。
 
 スタート時点の天候は、うすくもりで気温23℃、南西の風4メートル。ときどき吹く強い追い風に助けられた。11時過ぎ頃から雨の予報だったが、ゴール時間まで雨には降られなかった。スタート時の予想最高気温が21℃だったから、小雨になってくれれば、タイムは2時間10分台もかのうだったかもしれない。
 10KM地点の第一の心臓破りの坂までは、真継と並走して1KMが6分30秒。増田明美は、今年は最後までハーフを走ったようで、坂道でのハイタッチはなかった。さすがに坂道では、キロ7分30秒にペースダウンしたが、その後もほぼ1KM6分30秒で15KM地点まで走り抜けることができた。
 13KMすぐの下りのコースでは、キロ6分にペースがあがった。真継との差が、18KM地点では200メートルほど話されてしまった。

 残り3KMを過ぎた辺りから、真継が足の痙攣がひどくなったようだった。後ろから、200~300メートルごとに、歩いているのが見えた。美瑛川の橋を渡って、残りは1KM。止まってしまった次男を抜いて、競技場のトラックに入った。
 最後は、苦しかったが無事にゴールインできた。元ゼミ生の小嶋覺くんが、先にゴールしていて、わたしのライトスパートの写真を撮ってくれていた。彼は、1時間41分だったらしい。年賀状でやり取りが30年間続いていたが、まさか美瑛で会えるとは、、、おどろきだった。

 彼は、わたしが「ハーフの部」にエントリーしていることを事前に調べてくれていた。
 「2024BIEI Healty Marathon」の大会パンフレットに、わたしと次男がエントリーしていることを確認して、スタート1時間前に、わたしたちがスタートエリアに到着するのを待ち構えていたとのこと。
 「先生!」とわたしに声を掛けてくれた。30年振りの再会だった。1995年に、22歳の経営学部生で足が速い小嶋君を伴い、「JALホノルルマラソン」にエントリーした。わたしが走った最初のフルマラソンのレースだった。花の関係でハワイ島での取材が入っていたからだった。
 あまり深く考えず、取材のついでにと思い、小嶋君とわたしの2人分のエントリーフィーを支払い、成田からホノルルまでの往復航空券を購入した。あんな機会でもなければ、わたしは生涯にわたってフルマラソンを走ることはなかっただろう。
  
 ところで、わたしは、2週間ほど前に自宅に届いた「2024美瑛ヘルシーマラソン」のパンフレットで、参加者リストを見ていなかった。まさか小嶋君がエントリーしているとも知らず、会場で声を掛けられた瞬間は、目の前のランナーが誰だか全くわからなかった。
 「小嶋です」と言われても、ピンとこなかった。30年後の22歳の若者は、白髪交じりのおやじさんいなっていたからだ。ただし、もともと学生時代には野球などをやっていた。「フルマラソンを3時間半で走っています」と年賀状で知らされていた。
 30年前のホノルルマラソンでは、わたしが5時間30分でゴールした。小嶋君は、5時間ちょうどくらいのゴールタイムだったと思う。30KMを過ぎた辺りからは、燦燦と陽が差してきた。猛烈に湿度の高いワイキキビーチの付近を、とぼとぼと歩いてゴールした。

 屈辱の初ホノルルマラソンが終わり、一念発起して真剣にマラソンに取り組むことを決意した。
 最低でも年2回は、どこかでフルマラソンを走るようにした。年間で15分ずつ、ゴールタイムを短縮することを目安にすることに決めた。
 4時間を切ることができるまでは、7年間を要した。渡良瀬遊水地マラソンで、はじめて4時間を切ることに成功できた。その後、2007年から始まる東京マラソンは、第2回大会を除いて、すべて完走している。
 その後は『月刊ランナーズ』にインタビューで登場したり、47都道府県のハーフをすべて「サブ2」で完走できたのも、小嶋君とホノルルを走ろうと思ったからだった。それでも、時間は足早に過ぎていく。あと何回、美瑛ヘルシーマラソンが走れるのか? 美瑛町の「ペンションWE」さんに、この先何度、泊まることができるのか?

 ランナーとしての残りの時間を、大切に過ごさなければならない。今回、かなり厳しいハーフの坂を難なく克服できたのは、健康を取り戻せたからだった。月間100KM弱。練習のために確保できたのはごく短い時間ではあった。それでも、無理をせずに完走のためのスケジュール管理がうまくいった。
 ネットで検索すると、「男子40歳代の部」での順位は、10年前の実績に比べればひどいものである。しかし、急坂でも立ち止まることなく、鋭い坂の傾斜を自覚しながら、足を踏みしめて着実に昇っていくことができた。
 両足の筋肉の動きが、自分のコントール下にあることを自覚できるのは心地よいものなのだ。そのようにハーフマラソンを走れたのは、何年振りのことだろう。結果はたしかに気になるが、それは年齢とともに落ちていくもので、いちいち気持ちを落としても致し方のないことだ。
 この先も、美瑛ヘルシー2024の「坂上がり」のペースを忘れずに、走り続けたいものだ。そう思いながら、2時間24分弱の走りを、いま振り返っている。

コメント