【柴又日誌】#158:京都、嵯峨鳥居本の祇王寺に参る。

大阪での仕事を終えて、京都の娘の家に向かっていました。一昨日、夜遅くのことです。新大阪駅構内で車両故障があったらしく、列車遅延のアナウンスがありました。娘が住んでいる嵯峨嵐山には、10時半過ぎの到着になります。前日から京都入りしているかみさんがお風呂を沸かしてくれていました。でも疲れていたので、そのまま2階の和室に直行。朝方まで、こんこんと眠ってしまいました。

 

 翌朝は、体調がイマイチの娘を自宅に残して、かみさんとふたりで祇王寺まで歩きました。嵐山から嵯峨野あたりを散策です。嵐山の駅前から祇王寺までは、歩いて30分ほどです。

 冬の京都は、とくに平日は空いています。紅葉が終わったあとの京都は、どこも閑散としています。寒さの中を、重ね着をして歩いているのは日本人の老人たち。欧米系カップルや韓国人グループも数組いるだけで、騒々しい中国人の団体は数えるほど。嵐山近辺のお寺さんは静かでした。

 祇王寺まで直接に向かったわけではなく、大きな邸宅がある住宅街や通り沿いにあるカフェなどを横目で見ながら、ゆったりと時間をかけて歩きました。こんな風に時間を過ごすことなど、忙しくしていたこれまでの生活にはなかったことです。

 

 その道すがら、わたしが撮影した祇王寺の庭の様子などをインスタで紹介してあります(https://instagram.com/p/C2RhI33vstm/)。ちなみに、拝観料は300円でした。受付で600円を払いました。窓口のお姉さんたちは、どなたも感じがよろしいのです。観光都市の京都では、どこのお寺さんでも例外がありません。祇王寺の庭は小さいので、10分もあれば竹林に囲まれた庭園をぐるりと回ることができます。

 わたしが撮ったインスタの写真を、20人ほどに送りました。「冬の京都、いい響きですね!」は、静岡県立大学の大久保あかね先生から。祇王寺の苔を敷き詰めてある庭の写真を見た森田ママさん(Barブリッツ)からは、「気持ちがよさそうですね。苔がジブリみたいで癒されます」と感想が戻ってきました。

 この地域の呼び名は、わたしが勝手に思いこんでいた「嵯峨野」ではなく、正式名称は、「嵯峨鳥居本」(さがとりいもと)と呼ばれているようです。今や地元民となった娘から、正しい呼称を教わりました。地名には、「野」が付いていません。たとえば、嵯峨小学校のようにです。

 

  朝方は風が強かったので、かなり寒かったのでした。娘の家から祇王寺までは、片道2kmあります。コロナウイルスが蔓延する少し前(2017年~18年)の2年間、京都女子大学の現代社会学部で教えていました。そのころに何度か、祇王寺(平家のお寺さん)や大覚寺(源氏のお寺さん)まで走ってきた覚えがあります。

 帰り道にかみさんとふたり、甘味処で有名な甘春堂で生菓子と抹茶のセットをいただきました。店員さんがちょっと不愛想なところがあります。それさえ気にならなければ、お店の雰囲気は京都らしく晴れやかで、店内に陳列されているお菓子類も可愛らしく素敵です。

 温まったついでに、お隣のお豆腐屋さん「森嘉」で、娘のために嵯峨豆腐と飛龍頭(ひろうす)を買い込みました。わたしは、翌日の新幹線で東京に戻ることになっています。明日の夜食の仕込みのようです。

 祇王寺の庭を見た後、立派な邸宅の玄関に咲いている蝋梅(ろうばい)の写真を何枚か撮らせていただきました。途中から青空が出てきました。蝋梅の強めの黄色と青空のコントラストが美しかったのですが、ふと見ると、お隣の證安院に「オリジナルの御朱印あります」と案内が出ていました。

 御朱印を集めるのが趣味のかみさんが、證安院に吸い込まれていきました。仕方がないので、わたしも「御朱印の展示部屋」に案内されることになりました。今年の干支は龍で、おかみさんのおすすめも龍の御朱印でした。

 

 往路で歩いてきた道を外して、復路は2年前に亡くなった瀬戸内寂聴さんが開山した寂庵を探してみることにしました。娘の家に泊まるたびに、かみさんは友人たちと一緒に何度か探したらしいのですが、見つけられなかった場所です。ネットで確認した地番によれば、先ほどの祇王寺の近くにあるはずでした。

 地図が読めない女子連に代わって、土地勘の良いわたしが一緒でした。ほとんど道に迷うことなく、見事に寂庵を探し当てました。公開されているVTRで見ると、寂庵はずいぶん大きな敷地のはずです。しかし、道路との接地面が小さいのか、外からは居宅がよく見えません。探し当てた実際の表札は、拍子抜けするくらい普通のものでした。「瀬戸内」(金属タイル)と「寂庵」(木の表札)と、2種類ありました。

 寂聴さんが亡くなられて、今年で丸2年になります。寂聴さんの秘書を長く勤められたのが若い方で、瀬尾まなほさんというお名前でした。かみさんが先日、講演会に出席したこともあって、今回はぜひとも寂庵の場所を確認してみたいと思ったらしいのです。とうとう発見できました。

 

 旅に病んで、夢は枯野を駆け廻る(めぐる)、、、

 これは51歳のとき、大阪で病に倒れたあと、旅人の芭蕉が大垣で詠んだ最後の句とされています。寒くて風が強かったからなのかもしれません。なぜか昨日は、祇王寺までの道すがら、「枯野」が冬の季語であることを知らず、芭蕉の「夢」とは何だったのかを歩きながら夢想していました。そのうち、自分も晩年の芭蕉のようになるのだろうと思いながら。

 祇王寺の辺りは、わたしが5~6年前にここまで走ってきたときは、田んぼや畑が多い田舎道だったような記憶があります。でも、昨日歩いた祇王寺への道は、きれいにタイルブロックで鋪装されていました。整然とした道路脇には、新しい大きな邸宅がたくさん建っていました。玄関先には、高級車のベンツやレクサス、いかにもコレクターが持っていそうな古い型式のボルボなど。

 

 嵯峨野のイメージとはやや異なる風景に、昨日は少しばかり驚きました。寂聴さんが庵を構えたのは、いつのころだったのか?寂聴さんの3回忌の記事から、1990年ごろではないかと推測しました。そうだとしたら、寂庵を構えたころの右京区嵯峨鳥居本は、枯野の中にあったことになります。

 記念にと思い、寂庵を背景にかみさんの写真を撮ろうとして、わたしは夢から覚めたような気持になりました。スマホの画面でインスタの写真に収まった寂庵と塀の回りの様子を、目を凝らして眺めてみました。たぶんですが、30年前の携帯画像に映る背景は、大きな邸宅もベンツもない畑が広がる砂利道だったはずです。

 寂庵の塀の向こう側に、寒々とした枯野が広がっています。99歳で亡くなった寂聴さんの魂は、枯野を駆け廻っているのでした。