昨日(10月20日)は、父親の命日だった。1981年10月20日没である。脳溢血で自宅で倒れ、救急車で秋田の病院に搬送された。その数日後に、能代市の病院で父は帰らぬ人となった。高砂のわが家には仏壇がない。もちろん、お墓は能代市の「風の松原」に近い共同墓地にある。母親ワカと一緒のお墓である。
昨日は、茶箪笥の上に飾ってある遺影に向かって献杯した。父の遺影(久)の他に、母親(ワカ)、祖母(珍田サン)、おばさん(寺尾美代子)の写真が飾ってある。かみさんが、毎朝、水を取りかえてくれているが、昨日はお酒になった。
父親は、商売とりわけ金策で苦労していた。一時は、呉服で年商1~2億円くらいの売上があったようだ。ところが、日本が高度経済成長を終えてからは、婚礼の数も減っていった。能代の町も、かつて繫栄していた木材産業が衰退していった。過疎化が進んで、町中の行事も派手なことをやらなくなった。
その様子を見ながら、着物販売からしだいに寝具やタオル、引き出物の販売に比重が移っていった。三男が呉服屋の後を継ぐことになったが、すでに父はなく。母親と二人での商売は大変そうだった。そして今日に至る。
今月になって、自叙伝的な小説エッセイを著したこともあり、わたし自身の死後の整理(終活)を考えはじめている。わたしの家系では、男子が早死である。父が60歳で亡くなったのは、決して例外ではない。父親の兄弟や従弟たちは、ほとんどが50歳代でなくなっている。死因は、飲酒からくる糖尿病と脳溢血。ほぼわが父親と似たような死に方をしている。
わが相方も、小川家の男子どもの死に様を見ている。わたしも酒が大好きだから、しばしば「連続飲酒癖にストップ」をかけようとしてくる。だが、希望通りにはなっていない。遺伝的な性癖をよく知っているからだろう。月4回の休肝日を守ることができないでいる。今月も、東京レガシーマラソンの前日2日間は、休肝することができた。
したがって、これからもレースを走り続けることができるかが、長生きのカギになりそうだ。まだやりたいことも残っている。そうあってほしいと思っている。父親が亡くなった42年後に、このブログを書いている。
わたしが没した42年後は、家族たちは、そして世の中はどう変わっているのだろうか。