「新米退職者の日々、その先に来ること」『JFMAニュース』2022年4月号

 一年先んじて定年を迎えていた森本篤郎さん(サントリーフラワーズ元会長、JFMA元理事)に送別会で一冊の本をいただいた。わたしが3月に定年を迎えることを知ってのプレゼントのようだった。意外な本の贈り物にちょっと驚いた。

 

 酒席でそっと手渡されたのは、大田和彦著『70歳、これからは湯豆腐~わたしの方丈記』(亜紀書房、2020年)。著者の大田さんは、資生堂宣伝部のアートディレクターを経て独立。2001年から2008年までは、東北芸術工科大学の教授を歴任した作家さんだ。「湯豆腐」ってなんのことだろう? 本を開く前から、タイトルがとても気になっていた。まえがきに説明があった。「豆腐はそれ自体でうまいが、おでんも、鍋もすきやきも脇役として欠かせない。脇役だが最後はいろんな味を吸っていちばんおいしくなる。やわらかくて純白の姿は清浄に生まれて来たはずのわが身だ。それが人生のいろいろを吸収し、ほのかに色もついて豊かな味になっている。その豆腐が主役になるのが湯豆腐だ」。

 そうか、これから自分も鍋の底に沈んでいる豆腐になっていくのか。湯豆腐の本を読みながら、定年後の自分の姿を思い浮かべていた。主役でも脇役でもない一人になっていく自分。

 森本さんは、定年後は英語でボランティアの活動を始めていた。宴席では、ご自身の心境や定年後の生活を訥々と語られていた。そういえば、小田急ランドフローラで社長を務められた坂本哲夫さん(JFMA元理事)は、鎌倉で観光案内のボランティアをされているはずである。コロナで鎌倉あたりも観光客が激減している。いまはどうしているのだろうか?

 さて、自分事である。3月に退職してから二週間が過ぎた。いまは大学の方も残務整理で忙しくしている。大学と完全に縁が切れたわけではない。弟子たちからはいろんな頼みごとがやってくる。元院生で講座を継承してくれた坂本和子教授(豊橋科学技術大学元教授)からは、愛知県田原市の花輸出事業のアドバイザーを依頼されたりしている。

 新著『青いりんごの物語』を刊行したばかりである。日経新聞などに書評が出て、講演の依頼が飛び込んで来る。JFMAは、理事会やフラワービジネス講座などで相変わらずスケジュールが詰まっている。それでも授業がなくなったので、朝早くから出撃体制を整える毎日は終わった。本日は、昨夜の冷たい雨が嘘のような快晴だ。寝室兼書斎の窓辺に、芽吹いたばかりの木々の新緑がまぶしい。まったり緩やかな時間が流れていく。

 先日、京成高砂駅前の行きつけの店「寿司ダイニングすすむ」で店主の金井進一さんから思わぬ誘いを受けた。カウンター越しにキンメダイの炙りを手渡しながら、「先生、葛飾区で消防団員が不足しているんです。応募してみられません?」と。75歳までは、葛飾区の消防団員として現役で活躍できるのだそうだ。

 自称「制服フェチ」の金井さん(40歳)は、団員の制服など4点セットがお目当てで入団したらしい。動機は不純であったにせよ、いまや消防団ではリーダー的な存在である。東京下町に引っ越してきたのも何かの縁である。森本さんや坂本さんが地域の活動に参加しているように、わたしも消防団員のユニフォームを着て地域に貢献するのも悪くはない。定年の先に、もうひとつの生き方を見つけたような気がした。