独立して「わん(ひとり)」になった。どこの組織にも属さないので、会社名を「1(わん)」に改名したのだった。自由ではあるが、今日からはなんでも一人でこなさなければならない。法政大学やゼミ生に対して責任はなくなったが、自由ではあるが何かと不自由な人になった。そう自覚したのは、身分証明書と健康保険証を大学に返還した瞬間だった。
神田小川町の「オフィスわん」で仕事を始める前に、午前中に、身分証明書や健康保険証を返還するため大学院の事務室に寄った。6階の研究室は、すでに身分証明書も兼ねていたルームキーが使えなくなっていた。午後11時に、書籍整理のために秘書の内藤が来てくれた。彼女のカードキーも使えなくなったので、ストッパー代わりにドアに段ボールを挟んで、自分たちがロックアウトされないように注意した。
新しい書籍の在庫を、内藤が登校する前に2か所に分けておいた。高砂のわが家と、武蔵小杉の内藤宅である。新刊本の『青いりんごの物語』を内藤宅に50冊ほど転送するように手配した。新しい事務所(オフィスわん=「ギャラリー」と呼んでいる)では、資料の保管棚やリモートセミナー用のモニターがまだ用意できていないからである。
本棚のスペースにも限りがあるので、比較的新しい本の在庫を内藤に半分ほど引き受けてもらった。しばらくの間は、内藤宅からわたしが指示した送付先に郵送してもらうためである。内藤にとっても、その方が便利である。小川町のオフィスへ行く必要がなくなるからだ。在宅で作業ができる。
この先はどうなるかはわからないが、リモートでの在宅作業が一般化したことのメリットが、こんなところにも出てきている。時は移ろう。退職前に、コロナのせいで仕事の仕方が劇的に変わった。
午後は、九段校舎7Fの健康保険組合に立ち寄ることになっていた。古い健康保険証を返却して、代わりに新しい保険証を発行してもらった。46年間勤務した勤務員番号の「760773」(1976年採用の教員であることがわかる番号)がなくなり、「8×××××」という単なる連番に代わった。
ふとさみしくなった瞬間だった。あと2年間だけは、法政大学と健康保険証でつながることになっている。年間で一括の健康保険組合費(約48万円)を振り込んでみるとわかるが、ずいぶんの額が天引きされていたのだった。つい最近までは、ほとんど病気などしたことがなかったから、その恩恵を受けていることをしらなかった。たくさん病院に支払っていれば、一人当たりの負担額もかなりのものにはなるのだろう。
3月の教授会で、法政大学名誉教授に推薦していただいた。本日からは晴れて、法政大学名誉教授になった。名刺を作ってもらうつもりではいるが、さすがに自己負担になるのだろうな。ここで、自由な不自由が始まった気がする。
九段校舎を出て、靖国通りでタクシーを捕まえた。「神田小川町へ」とタクシーの運転手さんに伝えて、研究室から最後に持ち出してきた文房具類を抱えて後部座席に乗り込んだ。都営新宿線を使えば、市ヶ谷から小川町まではわずか3駅。本をたくさん抱えていたので、移動には電車ではなくタクシーを使った。
走行時間はわずか5分ほど。神田小川町の交差点で、タクシーを停めてもらった。料金は980円。スイカで乗り物代金を支払った。BARブリッツのオーナー、岩崎さんはこちら(オフィス)に向かっているはずだった。「f」の看板のブルーの扉が目印だ。ところが、BarBlitzのドアは、シャッターが下りたままだった。
玄関のある路地には、誰も立っていない。しかも、待ち合わせに遅れてきた岩崎さんは、鍵をもっていなかった。13時少し前で、「森田さんは13時半の出社なので、先生の荷物は事務所のほうに運んでおきます」と岩崎さん。本業の監視カメラの会社「カスケード」は、ブリッツから歩いて3分の靖国通りの反対側にある。
しばらく、本日わたしが持ち込んだ荷物を預かってくれるとのこと。
オフィススペースに入らないまま、新しい出発の初日は終わった。15時からは、浦上さん(今年度の大学院ゼミ生)とリモートで打ち合わせがある。
オフィスわんの事務スペースには、まだPCがセットされていない。来週4月7日と8日に、浦上さんと宮崎県庁(7日午後)と日向市(8日午後)に、プロジェクトでお世話になった「特産品のへべすのプロモーション」について説明に行くことになっている。
早めに都営線の小川町から地下鉄に乗って、自宅に戻ることにした。いまは、3日ぶりにブログを書いている。新しい日は、こうして暮れていく。特段なにか変わったわけではないが、わたしの身分証明書は、運転免許証だけになった。体は身軽になったのだが、糸が切れた凧のような存在になったようにも思う。