連載の66回目、ぞろ目のテーマは、卒業試験に失敗して留年することになった学生のお話です。ある日、学生の親御さんから、宅配便で文明堂のカステラが自宅に届きました。学生の反省文が箱の中に封入されていました。しかし、そのときのわたしの判断は、、、
「文明堂のカステラ事件」『北羽新報』2022年1月29日号(その66)
文・小川孔輔(法政大学経営大学院)
いまから10年前の卒業試験シーズンのことです。早稲田大学商学部の教授会が、「救済を求める行為は控えるように」という“注意喚起のメール”を4年生に送ったことが、新聞に報道されたことがありました。試験結果の発表時に、卒業生リストに自分の名前を見つけることができない学生が出たからでした。無駄とはわかっていても、そうした学生が研究室に来たり、往生際が悪い学生になると教員の自宅に押し掛けてきたりします。
かつての同僚の中には、単位を落として卒業できなくなった学生が、しつこく家族を付け回して困ったケースがありました。気が弱い若手教員の場合は、学生の強引さに負けて、あるいは同情からなのか、つい単位を献上してしまうことがありました。
しかし、そこはぐっとこらえて、情状酌量は一切しないのが良心的な教員のやるべきことです。教育的にも、それでは後々にまずいことになります。学生が単位をもらえてしまうと、世の中に出てから困るのです。厳しい状況におかれたときも、不正(データの操作)や嘆願(脅迫)で、自分の逆境を逆転できるものだと思い込んでしまうからです。
早稲田大学の新聞報道では、教員の自宅に一升びんが送られて来たケースが紹介されていました。わたしの場合は、単位を落とした学生から「文明堂のカステラ」が送られてきたことがありました。カステラの箱には、自らの非を詫びる手紙も添えてありました。しかし、カステラに手紙を添えて送り返しました。落第は自己責任なのです。
その後、教員の自宅住所と電話番号は、学内者ではあっても、原則として知ることができなくなりました。教職員の住所録が非公開になった理由の一つは、卒業判定を覆すための「研究室詣で」にあったのではないかと思っています。教職員名簿に掲載されている個人情報を複写して、誰が通信販業者に転売した事件があったようです。
経営学部の教員だったころは、3月の教授会で、卒業判定リストが回覧されてきました。わたしの仕事は、4年のゼミ生で留年者が出ていないかをチェックすることでした。運悪く留年者が出た場合は、ゼミ長に携帯からメールを送る約束になっていたのです。この時点ではもう救いようがないのですが、教員のミスで評価が「D」になってしまう場合があるのです。「成績調査」で、答案の紛失や成績の転記ミスが判明して、卒業判定が覆されることもありました。
白状すると、45年間の教員生活で、わたしも何度か転記ミスと計算ミスを犯しています。それは例外なく、大教室授業の場合でした。基礎科目を担当していたので、答案の枚数が800枚を超えてしまうことがあったのです。いまは大教室授業では、試験にマークシートが採用されているはずです。当時よりは転記ミスが少なくなっていると思います。そういえば、学部の教員をやめてからは、採点で肩こりがなくなりました。
学部教員の最後のころは、学生たちに「成績がひっくり返ることはないですよ」と事前にアナウンスしていました。その後は一度も、小川研究室詣でも、宅配便の小包が自宅に送りつけられることもなくなりました。学生たちも、教員の対応を知っていれば、救済の嘆願は無駄だと理解できるはずです。ほとんどの場合は、自己責任だからです。
*本コラムは、小川の個人グログ(2012年2月19日)「研究室詣で(泣き、笑い):卒業試験に落第した学生の救済、過去と現在」に加筆したものです。