大学院の最終講義で、「退職後は、大学教授から作家に転身します!」と宣言した。子供のころからの夢だった作家を、最後の仕事にするつもりでいる。本気でそう思っているので、年賀状に作家への転身のことを書いた。他人がどう思っているかは、あまり気にならない性格である。困難と思われることでも、大抵のことは実現してきた。
とはいえ、いまの職位から外れて、所属のない「ひとりぼっち」になるわけだ。さすがのわたしでも、不安がないとは言えない。これまで大抵のことは何とかなってきた。だから、4月からもどうにかはなるのだろう。困りごとといえば、神田小川町の事務所が、「オフィスわん」には向かなさそうなことだ。
当面は居場所がなくなるので、外部の人からはコンタクトが取りにくくなる。ちょっと不便になるのは、「ぼっちになる」ことだろう。幸いにして、いまはネット・インフラが整っている。当面は事務所がなくても大したハンディにはならないだろう。
秘書の内藤(光香)は、わたしが大学を離れても、秘書業務は続けてくれることになっている。前回は、『True North: リーダーたちの羅針盤』(生産性出版)の翻訳出版で、今回は岩田会長の伝記本『青いりんごの物語』(PHP研究所)で、林麻矢さんが出版のアシストをしてくれた。また、講演の資料作りなどは、元院生の長谷川まりさんが手伝ってくれている。
気のおけない仲間たちが、退職後も仕事を手伝ってくれそうなので、作家稼業で独り立ちできるまでは、コンサルタントや講師として、仕事で食いつないでいくことになりそうだ。だから、彼女たちには引き続き仕事をキープする必要がある。これまでは大学の看板で仕事をしてきたが、4月からは自分の看板の価値が問われる。
ところで、大学教授としていまできることを、何か忘れているような気がしてならない。現役の教師の立場でできることはなんだろうか?暮れから自問自答している。年末に、一つだけ実行したことがある。それは、孫たちを大学の研究室に連れて行ったことだ。わたしの仕事場と授業風景を見せるためだった。
2月22日(月)の大学主催の最終講義には、家族を招待するつもりでいる。前年には、次男の真継が東海道新幹線の運転乗務を終えた。真継君のラスト・ランに似たセレモニーを、最後に準備しようと思っている。ゼミのOB会は、2月25日の夕方から、フィールドワーク最終発表会の後に開催したいと思っている。しかし、これはいまやコロナ次第になっている。
それにしても、何か忘れ物をしているような気がするのはなぜだろう。
振り返ってみると、わたしは両親を大学のキャンパスに招待したことがなかった。そうだった。60歳で亡くなった父親は、わたしが大学に合格する前に、商売で仕入れの帰りに東大の本郷キャンパスを訪問している。3年前になくなった母親も、本郷と駒場のキャンパスに連れていったことがある。
ところが、46年間勤務した法政大学の市ヶ谷キャンパスには、両親ともに43年間で一度も足を踏み入れたことがなかった。招待しなかったといえばそれまでだが、母親は20年ほど前から、商売では上京しなくなったからだった。考えてみれば、かみさんの両親も市ヶ谷のキャンパスに招待するは一度もなかった。
親戚一同で、わたしの研究室に来たことがあるのは、長女の知海(総長選挙のパンフレット作成の下働き)と次男の真継(学部長の時の模擬授業)だけである。実の妹や弟たちは、キャンパス内で3度も移転した小川研究室を、一度も見たことがない。
それでも、わたしの著書が出るたびに、その都度いつも初版本を自宅に贈ってきた。むかしはよく出演していたテレビ番組は、放送局と出演時間を知らせていたものだった。テレビの画面越しにわたしの姿を見て、「お兄さん、なんとなく気恥ずかしくて」と妹の道子には言われたものだ。
人生の忘れもの。きっとそれは、自分が教室で学生たちを教えている姿を、肉親や親しい友人に見てもらっていないことだった。だから、最後の授業(2月22日)は、できれば卒業生だけでなく、ファミリーを招待してみたいと思っている。