ブログ記事の波紋:認知症の親父さんを優しく看取る

 自分が書いたブログ記事が、他の人の生き方に思わぬ影響を与えていたことを知った。昨日は、『JFMAニュース』に連載しているトップインタビューのシリーズで、JFMA事務局員の野口弥生さんと宮城県仙台市を訪問していた。仙台市中央卸市場に入場している「東園生花」(花の仲卸業)の高橋勝巳社長をインタビューするためである。

 

 高橋さんのご自宅でスペシャルなランチをいただきながら、インタビューは2時間ほどで無事に終了した。記事は、「JFMAニュース」の12月号と来年(2022年)発刊される1月号に、2回にわたって掲載される。高橋さんはJFMA設立(2000年5月)からのメンバーである。法政大学出身の高橋さんは、JFMAの前身に当たる「花のしごと基礎講座」(産業情報センター)の第一期生でもあった。

 さて、東京へ日帰りする野口さんを、高橋さんが駅まで送り届けてご自宅に戻ってきた。木本生花の木本社長を交えての夕方6時からの小宴会までは、3時間ほど時間が空いている。高橋さんからの提案で、親父さん(東園生花創業者、全国仲卸協会元会長)が残してくれた別荘で温泉に入ることになった。

 2年前ほど前に89歳で亡くなった高橋さんの親父さんは、生前に蔵王の山中に温泉付きの別荘を購入していた。「親父たち世代の間では流行だったんでしょうね」(高橋さん)。わたしの親父(小川久、享年61歳)の友人たちで商売がうまくいった小金持ちたちも、(秋田県の)五能線の海岸線の景色の良い場所に、眺めの良い小さな別荘を買っていたものだ。夏になると、孫たちを連れて海水浴に出かけていた。

 

 昨日は、高橋さんの運転で、仙台市内から山形方面に50分ほどの所にある別荘地へ連れて行ってもらった。親父さんが残していった別荘は、蔵王山中の別荘地の一番良いところにある。湯量が豊富で、泉質の良い温泉がこんこんとわき出していた。源泉かけ流しのお湯につかり、ずいぶんとのんびりしてしまった。木本さんが東京から日帰りで戻ってくる時間が近づいている。

 急いで山を降りてくる帰り道でのことである。ハンドルを握っている高橋さんが、親父さんが亡くなる2年ほど前に、わたしのブログ記事に感銘を受けたという話を始めた。高橋さんのお父様は、85歳を過ぎたあたりから認知症がひどくなった。問題行動を起こし始めて、高橋さんとしては頭痛のタネだった。認知症によくある症状で、突然わめいたり騒いだりするようになったらしい。

 親父さんの異常行動に悩んでいた時に、「鰻屋でうなぎを食べずに帰ってきた話」(2017年5月15日)というわたしのブログ記事を読んだ。わたしが、江東区森下に1LDKの書斎を借りていたころの話である。藤田屋という「うなぎ屋」が森下の駅前にあって、鰻好きなわたしは、うな丼を食べるために足しげく藤田屋(和子ママ)に通っていた。

  

 読んでいただくとわかるが、高橋さんが感銘を受けたのは、わたしの文章ではなかった。

 毎週の日曜日に、89歳の認知症の親父さんを連れて、藤田屋を訪れる息子さんがいた。杉本さんという方で、その方の立ち居振る舞いについて高橋さんは感動したのだった。杉本商会(自動車の解体業)を親父さんから引き継いだ息子さん(杉本さん)と、やはり東園生花を親父さんから継承した高橋さんご自身の姿が重なったのだろう。

 杉本さんの息子さんは、親父さんに鰻やてんぷらを食べさせながら、ちっともイライラすることがなく、繰り返し繰り返し辛抱強く認知症の親の会話に耳を傾けていた。「それに引き換え、自分は辛抱が足らない。先生のブログを読んで、気持ちを切り替えることにしたのです」。ブログを読んだ後での高橋さんの感想だった。

 車を運転しながら、坂道の途中で蕎麦屋の前を通り過ぎた。「先生、あの蕎麦屋です。別荘で温泉に入りたいという親父を連れて、あの蕎麦屋でそばを食べさせたのです」(高橋さん)。杉本商会の息子と同じ振る舞いを、高橋さんはマネてみたのだった。

  

 それから2年後に、高橋さんの親父さんはこの世を去ることになる。しかし、最後の2年間は、親父さんを何度も食事に連れていき、認知症の繰り返し話にいやな顔ひとつせずに過ごしたという。杉本さんのように、たまに相づちをうちながら、静かに耳を傾けることにしたのだった。

 「そんなことがあったので、親父が亡くなったときも、優しい気持ちで看取ることができたように思います。先生のブログを読んだおかげですよ。あの記事を目にすることがなかったら、親父にあんなに優しく接することができたかどうか。いまでも本当にありがたく思っています」(高橋さん)。

 わたしに感謝するくらいなら、杉本さんの息子さんにお礼をすべきだろう。あれから4年の時が経過している。元警察官だった杉本さんの親父さんは、もうこの世にはいないように思う。久しぶりで、森下町の藤田屋まで鰻を食べに行ってみようかな。和子ママは元気だろうか?

 

 

<参考>小川の個人ブログ

https://kosuke-ogawa.com/?eid=4237#sequel

 

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メニュー:Day Watch | 2017.05.15 Monday
「鰻屋でうなぎを食べずに帰ってきた話」
 朝早くから失礼します。今朝がた、何人かの友人にメールをしてしまいました。朝早くから、わたしの長めのドジな話で、ご迷惑をかけたかもしれません。昨夜は、うなぎを食べずに鰻屋から帰る羽目になりました。うなぎの藤田屋でのことです。

 昨日は、久しぶりの10KMレースで、多摩川の河川敷を走りました。タイムは57分11秒。男女混合、全体の67人中36位。ちょうど真ん中の順位です。
 10KMの距離だと、いつもは52~53分で走りますが、三か月ぶりの公式レース。アキレス腱を傷めていたので、注意深く走りました。そのせいか、いつもより体力を消耗しました。

 

 というわけで、夕方からは、うなぎの藤田屋へ。ところが、うなぎを食べずに帰ってしまいました。認知症のおじいさんを介護している自動車部品屋さんと話し込んで、うなぎを頼むのを忘れてしまったからです。
 去年の5月から、わたしは墨田区立川一丁目に1LDKのマンションを借りています。その二軒隣に、杉本商会という自動車部品屋さんがあります。外の看板は、「国産外車部品、杉本商会」。

 この辺りは、そのむかしは自動車の解体部品を扱っている会社が軒を連ねていたらしく、「解体部品通り」と呼ばれていたそうです。昨夜は、藤田屋で焼酎を飲みながら、そんな昔の話を杉本社長から伺っていました。杉本さんは、年のころは50歳代の後半でしょうか。そういえば、休みの日に藤田屋でときどきお見掛けしていたように記憶しています。
 何となく杉本さんのことを覚えていたのは、その隣に、89歳の認知症のおじいちゃんが座っていたからです。杉本親子は、日曜日に藤田屋に来る常連客だったのです。杉本さんは、認知症の親父さんにうなぎや天ぷらを食べさせながら、わたしと会話することになりました。

 この辺りは、その昔は自動車部品の通りだったとか。浜松(天竜川沿いの山の中)から出てきた親父さんは元警察官で、事故車を扱う部品屋さんがえらく儲かっているのをみて、警察官から転業して解体部品屋(杉本商会)をはじめたことなど。懐かしそうに、昔話が延々と続いていきます。
 「静岡から出てきたんだよね」と、杉本さんは親父さんに復唱させるのです。「そう、浜松(うー)」と89歳は、声を荒げて応えます。常連客はふたりをよく知っているので、それでも、店の雰囲気はふつうに流れていきます。これって、いいことだよね。そうやって親子はコミュニケーションをとっているのだと思ったからです。常連さんはそのことを知っているので、目くじらを立てません。

 でも、認知症なので、おやじさんはいま言ったことをすぐに忘れてしまっているようです。同じ会話が何度も続きます。「浜松だったよね。親父、、、」(杉本さん)
 
 杉本さんは、お母さんを早くに病気で亡くしたようです。父親が男手ひとつで、自動車部品の販売会社を経営しながら、息子(たち)を育ててきたようです。こうして毎週、父親を藤田屋に連れて来て一緒に食事をするのは、父親の恩に報いるためでもあるようです。
 「付き合っていた女もいたようだけど、ひとりでいたみたいね。そうだよね。親父さん!」と、わたしに父のあからさまな過去を説明しながら、父親の顔を覗きこんでいます。認知症の89歳は、息子からそういわれて、にこりと笑ったように見えました。
 立派な息子さんだな。そう思いながら、立川一帯の解体部品の商売が、1964年の東京オリンピック以降、どんなふうに変わっていったのか。杉本商店が、外車の解体部品に絞って商売をしていたことで、きびしい経営環境を生き延びることができたことなど、話は尽きません。
 
 いつものように、わたしがそんな突っ込みをしていたら、営業終了時間の9時少し前になっていました。この時間からでは、新しくうなぎを割いて焼くことができません。つまり、鰻屋でうなぎを食べないまま、看板になってしまったのです。
 藤田屋の和子ママは、優しい声で、「先生、明日また、うなぎを食べに来てくださいね!」
 というわけで、本日夕方、再度、わたしはうなぎにチャレンジします。今日は、8時前には、うなぎ丼かうな重を注文するようにします。二日間続けて、うなぎを食べそびれないように。