鰻屋でうなぎを食べずに帰ってきた話

 朝早くから失礼します。今朝がた、何人かの友人にメールをしてしまいました。朝早くから、わたしの長めのドジな話で、ご迷惑をかけたかもしれません。昨夜は、うなぎを食べずに鰻屋から帰る羽目になりました。うなぎの藤田屋でのことです。

 

 昨日は、久しぶりの10KMレースで、多摩川の河川敷を走りました。タイムは57分11秒。男女混合、全体の67人中36位。ちょうど真ん中の順位です。
 10KMの距離だと、いつもは52~53分で走りますが、三か月ぶりの公式レース。アキレス腱を傷めていたので、注意深く走りました。そのせいか、いつもより体力を消耗しました。

 

 というわけで、夕方からは、うなぎの藤田屋へ。ところが、うなぎを食べずに帰ってしまいました。認知症のおじいさんを介護している自動車部品屋さんと話し込んで、うなぎを頼むのを忘れてしまったからです。
 去年の5月から、わたしは墨田区立川一丁目に1LDKのマンションを借りています。その二軒隣に、杉本商会という自動車部品屋さんがあります。外の看板は、「国産外車部品、杉本商会」。

 この辺りは、そのむかしは自動車の解体部品を扱っている会社が軒を連ねていたらしく、「解体部品通り」と呼ばれていたそうです。昨夜は、藤田屋で焼酎を飲みながら、そんな昔の話を杉本社長から伺っていました。杉本さんは、年のころは50歳代の後半でしょうか。そういえば、休みの日に藤田屋でときどきお見掛けしていたように記憶しています。
 何となく杉本さんのことを覚えていたのは、その隣に、89歳の認知症のおじいちゃんが座っていたからです。杉本親子は、日曜日に藤田屋に来る常連客だったのです。杉本さんは、認知症の親父さんにうなぎや天ぷらを食べさせながら、わたしと会話することになりました。

 この辺りは、その昔は自動車部品の通りだったとか。浜松(天竜川沿いの山の中)から出てきた親父さんは元警察官で、事故車を扱う部品屋さんがえらく儲かっているのをみて、警察官から転業して解体部品屋(杉本商会)をはじめたことなど。懐かしそうに、昔話が延々と続いていきます。
 「静岡から出てきたんだよね」と、杉本さんは親父さんに復唱させるのです。「そう、浜松(うー)」と89歳は、声を荒げて応えます。常連客はふたりをよく知っているので、それでも、店の雰囲気はふつうに流れていきます。これって、いいことだよね。そうやって親子はコミュニケーションをとっているのだと思ったからです。常連さんはそのことを知っているので、目くじらを立てません。

 でも、認知症なので、おやじさんはいま言ったことをすぐに忘れてしまっているようです。同じ会話が何度も続きます。「浜松だったよね。親父、、、」(杉本さん)
 
 杉本さんは、お母さんを早くに病気で亡くしたようです。父親が男手ひとつで、自動車部品の販売会社を経営しながら、息子(たち)を育ててきたようです。こうして毎週、父親を藤田屋に連れて来て一緒に食事をするのは、父親の恩に報いるためでもあるようです。
 「付き合っていた女もいたようだけど、ひとりでいたみたいね。そうだよね。親父さん!」と、わたしに父のあからさまな過去を説明しながら、父親の顔を覗きこんでいます。認知症の89歳は、息子からそういわれて、にこりと笑ったように見えました。
 立派な息子さんだな。そう思いながら、立川一帯の解体部品の商売が、1964年の東京オリンピック以降、どんなふうに変わっていったのか。杉本商店が、外車の解体部品に絞って商売をしていたことで、きびしい経営環境を生き延びることができたことなど、話は尽きません。
 
 いつものように、わたしがそんな突っ込みをしていたら、営業終了時間の9時少し前になっていました。この時間からでは、新しくうなぎを割いて焼くことができません。つまり、鰻屋でうなぎを食べないまま、看板になってしまったのです。
 藤田屋の和子ママは、優しい声で、「先生、明日また、うなぎを食べに来てくださいね!」
 というわけで、本日夕方、再度、わたしはうなぎにチャレンジします。今日は、8時前には、うなぎ丼かうな重を注文するようにします。二日間続けて、うなぎを食べそびれないように。