昨夜は、門前仲町の秋田料理店「男鹿半島」で、村田監査役の送別会を行った。村田征吾さんは、JFMA(日本フローラルマーケティング協会)の設立時からのメンバーである。20年間、とても少ない報酬で監査役をお願いしてきた。新潟県の出身で、同郷の遠藤次男さん(JFMA顧問)の紹介で、JFMAの会計事務を引き受けていただいた。昨日は、村田さんのお別れの会だった。
ご自身の会計事務所を後進に譲って、来月には故郷・新潟に戻られるとのこと。白髪紳士の村田さんは、御年78歳。税理士さんや会計士さんによくいる実直なお人柄で、年1回の会計監査報告のときは、生真面目な雰囲気で会計監査報告をしていらした。
ところが、お別れの宴席故なのか、昨夜の村田さんは人が変わったように、愉快にお話をされていた。真の姿を知るに及んで、「このままお別れするのはもったいない」と思った次第である。もっと多くの酒席を設けるべきだったと、わたしたちは後悔することなった。
最後の宴席にするのは、すこし惜しい気がする。JFMAの松島事務局長は、「12月14日の理事忘年会に、是非とも参加を!」と懇願していた。わたしも同じ思いだった。そんな気持ちで、秋田料理の店を出てからの帰り道、門前仲町の薄暗がりの通りで村田さんを見送った。
村田さんと遠藤顧問は、新潟県上越市にある高田高校で同級生である。高校時代のふたりは、お互いに遠い存在だったらしい。村田さんは剣道部の部長で、遠藤顧問は新聞部の主筆。部室も剣道部は建物の一番右側で、新聞部の部屋は一番左側にあったらしい。
左翼と右翼のふたりはともに、一年目の大学受験に失敗した。そして、ふたりとも東京に出ていかないで、宅浪(自宅浪人)をすることになった。共通の友人の阿部君も試験に落ちたので、3人で東京の大学を目指すことを誓った。
翌年にはめでたく、遠藤顧問は学習院大学に、村田さんは立教大学に合格することになった。卒業後も、遠藤さんは、ジャーナリストになった。最後は、ダイヤモンドフリードマン社で社長を歴任している。村田さんのほうは、税理士となり会計事務所を設立して今日に至っている。
ところで、高校時代は、硬派の村田さんより軟派の遠藤顧問のほうが、学年に10%しかいない女子学生にはモテモテだったらしい。遠藤さんは長身である。学生時代は、女子たちから”アランドロン”と呼ばれていたらしい。本当かなと思うが、新聞部所属の遠藤さんは、女子学生たちに自由にインタビューできるというアドバンテージがあったからなのだろう。
一方、硬派の村田さんは、3年間の在学期間中に、女子学生に声をかけられたことは一度しかなかったという。校内で男子から一番人気のあったマドンナがいた。ある日、その女子学生と階段ですれ違うことあった。村田さんにとっても、あこがれの君だったのだろう。
狭い階段を下りてきた彼女と、村田さんはすれ違いざま、ちょっとだけ偶然にもぶつかってしまう。「すみません、大丈夫でしたか?」(村田さん)。「はい」(マドンナ)。この瞬間が、高校生の村田さんにとって、女性と言葉を交わした唯一の機会だったそうだ。
そこから、40年の歳月が流れる。社会人として終わりが近づくにつれて、村田さんに突如のモテ期が訪れる。50代の後半から、村田さんは社交ダンスをはじめることになったからである。ダンススクールの所在地はどこで、どのような教室なのかはわからない。
剣道3段の村田さんが社交ダンスに興味をもったのは、リチャード・ギア主演の映画「Shall we dance?」(2004年公開)を見たことがきっかけだった。1996年の日本版(「Shall we ダンス?」役所広司主演)は、わたしも見たことがある。村田さん曰く、「映画のシーンで、リチャード・ギアがバラの花束をもっていく姿、かっこよかったですよね」(村田さん)。どちらにしても、社交ダンスをはじめたことで、60歳をまじかにして、村田さんに人生初のモテ期が到来することになった。
とはいっても、社交ダンスのクラブは、シニアのメンバーで構成されている。村田さんによると、ダンス教室では、男性1に対して女性3くらいの比率になるという。だから、教室に男子が入って行くと、「女性たちが自分たちを待ち構えている感じになる」(村田さん)。そんな稽古場の雰囲気は、わたしにも容易に想像できる。
リチャード・ギアのように練習に没頭する村田さんに、ひとつ大きな問題が起こってしまった。
経験がないのでよくはわからないが、社交ダンスでは、男性が女性を抱きかかえるようになるのだそうだ。「女性は男性を道具として見てます。つまり、自分がきれいに踊れるようになるための支えの道具ですね」(村田さん)。結果として、男子は右手に大きな荷物をぶら下げているような感じになあるという。女性の全体重を、右手一本で支えなくてはならない。
というわけで、ある時から村田さんは、右手を壊してしまう。「そうなんです。シニアですから年齢的に、どちらもふらふらしていますよね。男性は女性に引っ張られるように踊るので、社交ダンスではなくて”斜行ダンス”になってしまうのです。ワッハッハ」(村田さん)。
村田さんのダンス人生にとって、さらに悪いことが起こってしまう。
ダンス教室の先生は、同じくらいの技量の男女を選んで、パートナーとして躍らせる。村田さんには、踊りをはじめてから10数年間、ペアで踊ってくれたパートナーがいた。巣鴨のとげぬき地蔵にある、床屋さんの奥さんである。年齢もちょうど同じくらい。ところが、3年前に村田さんは心臓の手術を受けることになった。
弁膜症の手術を受けるにあたって、村田さんはパートナーさんに宣言した。「鉄腕アトムになって戻ってきますから、待っていてくださいね」。心臓の手術は成功したが、ダンスができる状態ではなくなってしまった。「もはや軽やかにステップを踏むことができず、体が動かなくなりましてね」(村田さん)。
2度と踊れなくなってしまった村田さんは、ある日、ペアを解消することになったパートナーさんに謝るために、スタジオに出かけて行った。村田さんの謝罪の言葉に、パートナーさんは笑って答えたという。「鉄腕アトムじゃなかったのね。村田さんは」。
ダンス人生が終わった村田さんは、来月、生まれ故郷の新潟に帰っていく。「昨日のこの話、ブログに書いてよろしいですよね」というわたしの確認の電話に、村田さんはうれしそうに答えてくれた。「そんなにおもしろい話でもないでしょう」(村田さん)。「いやいや、斜行ダンスには笑ってしまいましたよ」(小川)。