1982年から1984年までの2年間、米国カリフォルニア州バークレイ市で暮らした。法政大学が就職して5年目、29歳の若手研究者を海外に派遣してくれたからだった。寛容な大学の措置のおかげで、米国人の友人や日系人の知り合いと交流を深めることができた。いま振り返ってみると、あの2年間は一生の財産になっている。
米国西海岸は気候が温暖なので選んだ。しかし、留学先のUCバークレイは、文化的に先鋭的な大学町だったd。だから、いまでもわたしたちにとって、たとえばLGBT(Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender)は特別な事象ではない。留学後すぐに友人になったデービッドとギル(UCバークレイの講師とサンフランシスコ市の交通局職員)は、そのカテゴリーにジャストフィットする仲間だった。
なぜ二人に出会ったのかはよく覚えていない。二年前に留学していた遠田雄二先生(法政大学経営学部の同僚)が、ふたりをわたしに紹介してくれたのかもしれない。デービットとギルのふたりは、まるで夫婦のようにつつましく暮らしていた。それだからだろう。日本人の社会に、ふたりは文化的に強い興味を抱いていた。
35年後のいまでは、多少社会の在り方が変わっているのかもしれないが、米国の白人社会は、基本的に知性と無縁の世界だった。その体験があるので、アメリカ大統領に知性のかけらもない人間が選ばれても、大して驚きはしなかった。
トランプのようなビジネスで成功した人間が、中枢のアメリカ社会では成功者として敬われる。「お金がすべて」の価値観の国だったからだ。パワーとマネー(PM:Power&Money)。この二つを持ち合わせていない人間は、米国社会では一段と下にみられる風潮がある。
それは、米国の白人社会の価値観だったと思うが、デービッドもギルも東洋人のような思想と性格をもっていた。優しすぎる存在だったのである。知的にも性格的にも素晴らしい資質をもちながら、わたしが「2M」と密かに呼んでいた「マッチョとマネー」にふたりは無縁だった。米国社会の中枢からは遠く外れた価値観を持った人間は、米国のど真ん中では生きようがない。残念なことだがそれが現実だった。
米国生活でお世話になった友人の中で、優しいゲイの二人(デービット&ギル)とともに、わたしたちにとって決して忘れることができない二人の存在があった。カリフォルニア大学バークレイ校の元秘書、マーガレット・レブハン女史(通称:マギーさん)とその友人のベーカーさん(ファーストネームが出てこない!)である。
ベーカーさんはユダヤ人で、日本の総合商社トーメン(東洋綿花)のサンフランシスコ事務所に勤めていた。マギーさんは、サンフランシスコ湾を見下ろす傾斜地の庭で、たくさんの盆栽を育てていた。サンフランシスコ盆栽協会の有力メンバーだった。一方のベーカーさんは、日系企業に勤務していることもあり、きわめつきの日本通だった。そんな事情もあって、わたしは隔週のベースでマギーさんとベーカーさんに日本語の家庭教師をしていた。
その反対給付で、わが妻(まさえさん)は、マギーさんから米国の南部料理(ケージャン料理)を習っていた。「ケージャン(料理)」(Cajan Cousine)とは、フランスの流れを引く南部黒人料理である。基本はフレンチである。ただし、実際には南部の素材(たとえば、オクラとかナマズ、ガンボフィレ)を使っていたから、フレンチとはかなりちがうレシピになっている。
たとえば、ジャンバラヤ、パエリヤ、ガンボー(ガンボーフィレとオクラ入りのシチュー?)、キャット・フィッシュ(ナマズ)のフライなど。不思議な料理だったが、甘いお菓子なども、かみさんが後生大事に抱えている「セピア色のレシピ手帳」の中にいまでも残っている。再現してほしい料理が多数存在している。
そんな楽しかったカリフォルニアの時間の中で、忘れられない食体験があった。それは、留学2年目にオークランドの一軒家に移ってからのことだった。ある日のこと、ベーカーさんがわが家にたくさんの渋柿を持参してくれた。もちろん渋柿はそのままでは食べることができない。固くて渋かったからだ。
ベーカーさんのアドバイスで、オークランドの借家のベイウインドー(食堂の窓辺)に渋柿を並べて置いておいた。かみさんの記憶によると、北側の窓際だったらしい。何週間か経つうちに、最初は固かった渋柿がだんだんと熟して、色も赤みを帯びてきた。皮の上からそっと触てみると、中身がぷにょぷにょになっていた。もう食べられそうだ。そう思ったら放置はできない。
「時期がきたら、スプーンですくって食べられるようになりますよ」とベーカーさんが予言していた。一か月後くらいだったと思う。渋柿を窓辺からテーブルに移して、柔らかくなった皮にスプーンを突きさしてみた。あらあら不思議なことが。とろとろになったパーシモンの実が、とろけるようにわたしたちの口腔を満たてくれた。お菓子のように、あまーい柿の実だった。
日本に帰国してからも、何度となく柔らかい柿の実を食することがあった。しかしそれでも、ベーカーさんの渋柿を超える食味のパーシモンに出会うことはない。とろったしたデザートのような柿の実。なぜなのだろう。いまでも、その不思議さに戸惑うことがある。オークランドの家のテーブルで食べたベーカーさんの柿には、どんな処置が施されていたのだろう。
単に、ベイウインドーでお日様の光を浴びていただけではないだろう。柿の「へた」を焼酎のようなアルコールに漬け込むとか、なんらかの特別な処置を施していたにちがいない。ベーカーさんもマギーさんも、いまは故人となってしまった。真実はいまや知りようがない。
できることと言えば、せいぜい高砂の新居で、ベーカーさんの実験を再現してみるくらいのものだ。実はいまキッチンの北側に、家庭菜園を借りている晋平君(実弟)からもらってきた柿の実が二個、隣り合わせに並んでいる。表面はすこし傷んでいるが、もしかして、あの時のベーカーさんの柿たちを再現できるかもしれない。
今回は窓の北側ではなく、南側の窓辺である。高砂の一階のダイニングは、吹き抜けになっている。天気の良いと、二階からお日様が差してくる。一階の窓辺で上からの陽光を浴びて、一か月後にもしかすると渋柿が熟しているかもしれないのだ。
あのぷにょぷにょの甘い柿のテクスチャーが忘れられない。いまからそれを期待しては、落胆のリスクが大きいだろうか。