8月に入って、2021年末に発刊予定の『ロック・フィールドのDNA(仮)』(PHP出版)に打ち込んでいる。夏合宿が延期になり、後期は11月第二週からの授業開始になる。とにかく時間がある限り、ロック・フィールド創業者の岩田弘三さん(現会長)になり切って、ひたすら原稿を書いている。
単行本の仕事は、息が長い。今度の本は、全部ひとりの書く単著である。スタートの2019年から、すでに3年越しになる。作家の故開高健氏が言っていた。「書くということは、野原を断崖のように歩くことだろうと思う」。
例えて言えば、ヒマラヤを登山するようなものだろう。目標は明確(高峰チョモランマ)で、登山道具もアシスタント(シェルパ)もいる。装備も食料も充分だ。しかし、最後は自分の足で登頂しなければならない。
途中で何度も心が折れそうになる。いや実際に何度も仕事を放りだしたくなっている。すでに5回くらい。全体の構想も個別のエピソードの取捨選択も、自分でやらなればならない。インタビューや検索で素材は選べるが、先が見えないからとてもつらい。
というわけで、途中経過(一部)を公表することにした。差支えない範囲で、独立した原稿の一部を公にさらすのである。なぜなら、自分の今(到達地点)が確認できるからだ。ここから3か月間、ときどきこうして完成原稿(一部分)をブログに発表することにする。
今回のコラムは、第3章「関東圏への進出」第4節に登場するエピソードである。岩田会長とアラン・シャペルが、ミヨーネのレストランで過ごした不思議な一夜の逸話である。書籍の中では、コラムのひとつとして扱われる。アラン・シャペルは、フランス人の著名な三ツ星シェフで、ポールポギューズらとともにヌーベル・キュイジーヌの巨匠と言われた。
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<コラム3-1:ヌーベル・キュイジーヌの巨匠たちと>
岩田の海外シェフ人脈には、1970年代から2000年代に活躍した「ヌーベル・キュイジーヌ」(新しい傾向のフランス料理)の著名な料理人たちがいる。具体的には、ポール・ボキューズ、アラン・シャペル、ピエールとジャンのトロワグロ兄弟などである。
そのなかの一人、アラン・シャペルと岩田は、アランの両親がはじめたレストラン「メール・シャルル」で、実に不思議な一夜を過ごしている。どことなくいつもチャーミングミングな岩田から、筆者が直接聞いた話である。
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僕がデリカテッセンの仕事を少しずつ始めて、デパートでやり出したころ。ロアンヌの3つ星レストラン「トロワグロ」へ、うちの社員もよく送って勉強していました。トロワグロの店を小田急百貨店でやっているときに、神戸のポートピアホテルにレストラン(1981年3月~2012年3月)を出していたアラン・シャペルが来て、「俺の所に来い」ということになった。そこで、ミヨーネに行って、アラン・シャペルとの食事に呼ばれた。
それで、彼は「一晩話をしよう」と言うのだけど、僕はフランス語を喋れない。英語も片言で、アランも英語が喋れない。「これは困ったな」と思って、パリの日本航空に中村という友達がいたので、パリに電話をかけてみた。「中村、悪いけどお前、いまから来て通訳してくれへんか」と。
パリからミヨーネまでだと、大体3時間か4時間ぐらいかかる。電車に乗って夜中の2時に来てくれた。それで呼んだ中村とアラン・シャペルと僕との3人。友達はもう英語ペラペラですし、フランス語も喋れますから、彼が通訳して朝の5時まで色々話しましたね。
それで寝るのかなと思ったら「行こう」となった。わたしが「どこ行く?」と聞いたら、「市場行く。俺は今から買い出しに行くんだ」とアラン・シャペルが言った。それで一緒に市場に行ったという、まあ本当に嘘みたいな話ですわ。
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アラン・シャペル(Alain Chapel、1937年11月30日 – 1990年7月10日)は、「料理界のダ・ヴィンチ」と呼ばれた。フランス・ミオーネにある両親のレストラン「メール・シャルル」で料理の指揮をとる。1969年からミシュランガイドの2つ星になり、1973年にフランスで最高の仕事人に選ばれた。1973年には、ミシュランガイドの三ツ星を獲得した。1990年7月10日、アヴィニョンで急死した。