花の舞台に立つ: 福花園種苗、吉田俊大さんの場合

 名古屋駅近くにある「福花園種苗」の本社を訪問させていただいた。今週の月曜日、午後13時のことである。福花園のある松原地区は、日本の花の相対市場発祥の地である。社長の吉田豊さんとご子息の俊大さんに、インタビューをお願いしていた。親子が同席するインタビューは珍しい。テーマは事業承継だった。   
 お二人には質問について簡単なメモを渡してあった。市ヶ谷の研究室でお会いすることが決まっていたが、事情があってインタビューが先延ばしになっていた。ご子息の俊大さんは、JFMAのビジネス講座をシリーズで受講されていた。昨年度は欧州ツアーにも参加してくださり、9泊10日間の旅では、JFMAのメンバーともずいぶん打ち解けて仲良くなっていた。
 何かの会食の席だったと思う。俊大さんが大学卒業後に文学座で役者をしていたことを知った。その昔、バックパッカーで世界中を歩き回った経験も話してくださった。名古屋の有力な種苗会社の4代目で、最近まで自由な生活を謳歌していたらしい。
 文学座では、アジアの国々で英語劇の舞台にも立った。独身の37歳。文学座の新人オーディションに一発で合格するくらいだから、かなりの美男子である。若い女子たちに囲まれて、モテモテの日々が続いていたにちがいない。しかし、本人曰く。「きらびやかな世界に見えますけど、実家から仕送りをしてもらっていたわけでなく、いわゆる極貧の毎日でしたよ」。
 そうした中で、自分が乗る船の進路を大きく変更するときがやってきた。俊大さんが35歳のときである。
  
 平成29年11月のある日。父親の豊さんから東京の稽古場にいた俊大さんに電話が掛かってきた。「会社が100周年を迎える。名古屋に戻ってきて、社員たちに顔を見せてくれないかね。これが最後の頼みになるかもしれんけど」。子供のころ、アルバイトで一緒に花市場で働いていた社員さんたちの懐かしい顔を思い出した。
 自分が役者の道に進んだので、代わりに家業を継いだ実姉が、体を壊して福花園を離れたことも知っていた。父親が言ってくるのだから、100周年の集まりに出席するため、とにかく名古屋の実家に戻ることにしよう。
 しかし、3月にはアメリカで舞台に立つことが決まっている。海外で、それも本場のニューヨークで舞台に立つことができる絶好のチャンスを与えられていた。
 
 福花園種苗は、大正6年創業の老舗種苗会社である。初代の吉田俊之助が愛知県南陽村の西福田で、お稽古用の切り花と生産者向けの種苗を扱うようになったのが、商売のはじまりである。創業の地「西福田」にちなんで、社名を福花園としたのだという。戦前は、沖永良部のユリ球根を欧州へ、葉牡丹の苗を満州に輸出して財を成している。
 福花園の本社社屋の駐車場にある看板には、自社の業務内容の最初に「貿易」と堂々と書かれている。貿易商的な種苗会社として商売を伸ばしてきたルーツが、京都のタキイ種苗や横浜のさかたのタネとの大きな違いである。
 その後は、スターチスでメリクロン苗の増殖事業に参入したり、美里農場内に閉鎖系の温室を作り、遺伝子組み換えにも取り組んでいる。進取の気性に富んだ、商社的でイノベーティブな種苗会社なのである。
 3代目の豊氏が、父親の俊雄氏から社長の座を譲られたのが、平成7年のこと。2代目のころに、日本で初めてニュージーランドからカサブランカを輸入して国内で販売している。3代目の豊社長も、タイのチェンマイの原野で見つけたクルクマを欧州に向けて輸出して大儲けをしていた。
 「クルクマの球根が現地で4バーツ(約16円)。これを欧米人が1ドル(約240円)で買ってくれました。笑いが止まらなかったです」(吉田豊社長)。そこから22年の時が経過していた。
 
 100周年の記念祝賀会は、従業員や会社のOBなど60人だけの集まりになった。200社ほどあるお得意さんには、式典の招待状を送ることをしなかった。三代目の豊社長は、後継者がいない老舗種苗会社の引き取り先を探している最中だったからである。それでも、単身で名古屋に戻ってきた長男の俊大さんを、社員たちは温かく迎えてくれた。 
 祝賀行事は滞りなく終わり、こじんまりとした祝賀会は静かに幕を閉じた。俊大さんは東京に戻って、渡米の準備を始めようとしていた。そのときのことである。ふと、言いようのない寂しい感情が俊大さんの胸に去来した。
 「ずいぶんと寂しい会だった。なぜなのだろう。そうか、自分が後継者になれないから、会社は身売りされる。社員たちの何人かは、もしかして路頭に迷うことになるかもしれない」
 何不自由なく育てられ、中高一貫の私立高校で6年間の寄宿生活を楽しんだ。高校卒業後は、東京の大学に進学させてもらった。大学時代は世界中を放浪したが、そのお金も父親が出してくれた。自分が遊んで使ったお金はどこから来ているかといえば、社員たちが花の仕事で稼いでくれたものだ。
 役者になろうとしたとき、両親は猛烈に反対はしたが、自分は聞く耳をもたなかった。多少のうぬぼれはあったにせよ、役者としての才能はあったと思う。アジアの国を転々として、いまようやく米国で舞台に立てるチャンスに恵まれた。この先には、大きな挑戦の機会が待っている。
 
 文学座で自分を指導してくれた先生たちにも、いつか恩返しがしたい。しかし、このまま米国に渡ってしまえば、名古屋に戻ってくることはないだろう。残された社員たちは、自分の運命とは真逆な立場に立たされる。彼らの行く末はどうなるのだろう。
 そう思ったときに、まったく違う舞台に立つ自分を想像してしまった。そうなのだ。自分の立つべき舞台が芝居の外にあることに気づいたのだった。役者としてではなく、後継経営者として花の舞台に立つ。いまならぎりぎり引き返せる。Point of No Return。不思議な感情だった。
 すぐに、父親に電話を入れた。「松原に戻って、跡継ぎになることにした。ここまで来てしまったが、役者はやめる」
 先のことはわからない。しかし、自分を支えてくれた人たちを捨ててまで、役者をやり続けることはできない。もうひとつ別の舞台に立って、新しい役を演じることに決めたのだから。