発展途上国にありがちなことで、商都のサンパウロは、排気ガスで汚染されている。2日目の夜から喉をやられて、散々な目にあっている。さして暑くもないのに、冷房をガンガン効かせる。やっと今朝になって体調が戻りつつある。パゴダでは、ホテルにジムがあるらしい。走って汗を出したい。
第二次戦後とくに、オランダ人と日本人が、ブラジルの花産業の発展に貢献してきた。ただし、両国の政府が国民を支援してきたやり方には大きな差がある。昨日のブログで紹介したように、オランダは、政府の資金で、ブラジルで生産を始める若者に、資金と技術を援助している。
オランブラのオークションも、オランダ方式だった。明らかに、オランブラのシステムはフローラホランド市場の20年前をコピーしたものである。
結果として、オランダの花産業の国際戦略はうまくいっている。国の経済が花き産業で成り立っているから、彼らの必死さが伝わってくる。また、定着のための支援は、国を離れても変わらない。農業移民に対する態度の違いが大きい。
日本政府の立場は、自動車や家電、加工食品(味の素やヤクルトは成功している)と花とではまったく違っている。わたしたちの目から見て、一時的に機能していたのは、海外青年協力隊による人的派遣だけのように見える。その実態を、サンパウロ郊外1時間のところにある避暑地、アチバイヤで見てきた。
滞在3日目は、日本人が定住して作った花の街、アチバイヤを視察した。最初の日本人移民がブラジルに渡ってきたのが1908年。第一陣は、沖縄と九州から七百人強。コーヒー農園に入ったが、移民たちは農場では食べられず、サンパウロ市内にもどって日本人街に定住した。
標高800mのところにあるアチバイヤで、日本人が本格的に花を作り始めたのは、第三陣から以降のことになるようだ。最初に訪問させていただいた小林さんは、お父さんが長野の出身で、戦後の移民である。
案内役をかっていただいた協会長の小村四郎さん(57歳)は、ご両親が北海道の生まれで、やはり戦後の移民だ。小林さんも小村さんも、日系の二世になる。日本語は話せるが、漢字を書いたり読んだりはできない。
日本人生産者の協会メンバー(pro flora)は、かつては300軒あったが、いまは60軒に減少。第三世代になると、農業はやめて医者や弁護士など、オフィスで働きたがる。これは、サリナスで花を作っていた米国への移民と同じだ。
ところで、20年ほど前に、長野県の松代にホームスティをしたことがある小林さんの話をまとめてみる。
お父さんの時代は、カーネーションと菊をつくっていたが、いまは、トルコキキョウに転換している。種子は、さかたとタキイ種苗から購入。作り方の指導も日本の種苗メーカーから受けている。
栽培面積は、全部で7ha。そのうち簡易な温室が3ha。栽培方法は、ばかし肥料(米ぬかと骨粉をミックス)を主体にして、EM菌を用いた自然栽培。連作障害を避けるために、緑肥をすき込んで土をつくり、蒸気消毒をする方法。農薬を使わない方向は、オランダも日本も同じだ。
出荷先は、全量がオランブラのオークション。小林さんによれば、オランブラのトルコキキョウの約30パーセントは、小林さんのものだそうだ。花の用途は、ブライダルやパーティーらしく、いい値段が付いていた。
週に3回ないしは4回の出荷。午後13時にトラックが取りに来て、1時間をかけてオランブラまで。小林さんのトルコは、オランブラで翌日の朝にセリにかかる。
一回の出荷量は、台車6台分。一台車が、10本束×6束×12箱=720本。なので、4320本が1日の平均出荷本数。年間200日の出荷とすれば、年間での生産本数は約80万本。セリ価格の平均は、40~50円。結構な収入になる。これで、ブラジル人を15人雇用している。従業員は、農場内て宿舎をもらって生活をしている。
なお、日本の種苗会社から種子を購入してして、苗は自分で作っている。ぼかし肥料も木製の温室もすべて手作りだった。昨日訪問した、オランダの鉢物生産者は、資材も天敵農薬も、ピメントやケイトウのプラグ苗も、業者から購入していた。
オランダの強いところを強調したが、日本人には日本人らしく、生産技術を含めて良いところもある。ただし、どちらが長い目で見て生き残れるかは、後継者の確保を睨むと、オランダ人に軍配があがるように思える。
ちなみに、小村協会長は、10人兄弟の四番目だが、二人だけが花作りを継承。その他の兄弟は、農業以外の仕事をしている。また、妹のふたりは、日本にわたり、愛知と岐阜に住んでいる。100万人いるブラジル日系人によくあるパターンである。
なお、午後に訪問したランの生産者(聡明そうな女性)、JAICAを通してたくさんの日本人を受け入れてきた。いまでもその人たちとは親交があり、良好な関係が続いている。しかし、ブラジル人の日系二世として、自分が日本に旅行で行くと、あからさまな差別を受けることを嘆いていた。
お伝えしておきたいのは、日本人とオランダ人の移民に対する立場の違いを示すエピソードだと思ったからだ。
今日は、サンパウロ市内を視察して、午後にはコロンビアに向かうことになる。