本多真一郎君(元大学院生)、3年後の上海からの記事と写真

 大学院生の多くは、国内企業で働いている。卒業後に転職先で困っているときに、仕事先や知り合いの企業を紹介してあげたこともある。立ち上げた事業の支援やコンサル先の仕事を仲介したケースなどもある。そんななかでちょっと風変わりなのが、本多君との関係だ。



 最近、ひさしぶりに中国上海から短期帰国していたらしい。実家の中野区若宮の住所から、わが家に茶色の封書が届いていた。
 「読売新聞」(2012年7月14日)の国際版(人、世界が舞台)に、「自分の記事が載ったので、送ります」とコピー記事が添えられていた。かっこいい写真も、、、本多君のは、音程の高い細い声だったな。タイトルは、「日系バンド進出後押し」。
 コラム(角谷志保美さん)では、上海でコンサート運営を手がける日本人として紹介されていた。わたしがユニクロやキリンビバレッジ、資生堂やハニーズの取材などで、頻繁に中国に行く姿をみて意気揚々と、2002年に上海に渡っていった。中国に日本の音楽を移転するしごとだった。

 コンサートの開催を支援するために、中国人に雇われて働いていた。最初は、語学学校からのスタートだった。しかし、心配した通りだった。たまたまわたしが上海に調査に行ったときに食事をした。レッグスの谷君も一緒だった。しかし、本多くんは、まったく元気がなかった。
 結局、中国人と大陸文化になかなかなじめず、日本人として十分な仕事をできずに数年で帰国した。わたしの研究室に会いに来たときに、ほとんど泣き顔で自らの挫折を吐露していた。
 数年後、再び中国に渡った。今度は、仕事仲間や知り合いにも恵まれたらしく、学生時代から抱き続けていた中国と日本の音楽のかけ橋になることに目途がたってきた。そして、昨日の茶封筒である。コピーを下に添付する。

 もう36歳になったのか、と思った。読売新聞の女性記者が撮った写真をみると、いまでも色白で華奢な感じは変わらない。でも、手紙を見る限りは、ずいぶん大人になったようだ(笑い)。
 近々に、上海に行くことがあるだろうから、そのときは、谷君と一緒に3人で飲もう。

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   「読売新聞」(2012年7月14日)

  上海にある日系ライブハウス「MAO」を拠点に、日本の中堅バンドを中国市場に売り込むために奔走している。上海公演を目指すバンドの出演交渉から宿や交通の手配、中国当局の興行許可取得、チケット販売、宣伝までを一手に引き受ける。
「日本のバンドは独自の良さがあり、高い文化水準を誇る。実力があるバンドが簡単に上海を訪れ、公演できる枠組みを作りたい」と意気込む。
 初めて中国を訪れたのは2002年。「この国はまだまだ未知数で面白い」と思い、なかでも古くから西洋と東洋の文化が溶け合う国際都市、上海のきらびやかさにひかれた。
 元々音楽が好きで、最初の就職先は外資系大手CD店。02年からは東京の専門学校のコンサート・イベント科で音楽流通などを教えながら法政ビジネススクールに通い、06年に経営学修士号(MBA)を取得。翌年、仕事を辞め、上海に渡った。
「音楽は国の隔てなく、感動、喜びを共有できる商品。日本に閉塞感があるなか、バンドの中国公演がビジネスとして成り立つようになれば」と夢を膨らませる。
 が、現実は厳しい。上海では、中国語を1年間勉強した後、地元のコンサート制作会社に就職。日系バンドの上海誘致に取り組んだが、物価格差、商習慣の違い、中国側の設備やサービスの水準の低さなど、壁は厚かった。日中の間に一人で挟まれて疲弊し、09年に一度は帰国した。その後、MAOの運営に携わる音響会社「MSI JAPAN」と縁があり、10年、同社の社員として再び上海に戻ってきた。
 中国の音楽業界を取り巻く厳しさも、日中の意識の差も変わらない。が、今度は日系企業に身を置く安心感もあり、より仕事に専念できている。また、中国側も設備やスタッフの質が向上してきていると実感する。
「人がいない所に走ればパスは来る」。苦しい時に思い出すのは、高校時代に所属したバスケットボール部の監督の言葉だ。リスクも多い中国の音楽業界で活動する日本人は少数派。だからこそ、チャンスとやりがいを感じる。
 日中関係が緊張すると規則が厳しくなるなど、独特の難しさもある。しかし、「日本の音楽が受け入れられる土壌は十分にある。政治は政治、文化は文化として交流を深めたい」。5年、10年先を見据え、「開拓者」の気持ちで巨大市場に挑む。(上海 角谷志保美)