大学院のプロジェクト中間報告会が終わった。院生が自らの起業プロジェクトを、約20分間でプレゼンし、教員からコメントをもらう儀式である。総勢55人の院生が二組に分かれて、プロジェクトの新規性や事業性の観点から評価を受ける。教員は2班に分かれて指導する。
学生に対する先生たちのコメントの仕方を見ていると、ある種の傾向があることがわかる。
生徒についても、発表の仕方に傾向はあるのだが、これは別の機会に紹介する。本日の話題ではない。
差しさわりがあるので、文中では個人名を控えさせていただく。わたしは学科長(校長先生)なので、コメントをしている側の先生たちの発言を、実はチェックしているのである。暗黙の行為として、教師の「通信簿」をつけているのである。
以下は、教師と院生の集団指導(チーム体制)で起こっていることの、私的な観察記録である。大学院のクラスルームで進行している議論の、一般的な傾向だと思っていただいて差し支えない。
土日の2日間(7月30~31日)で、学生のプレゼンテーションに対する教員のコメントを見ていた。生徒一人あたりの持ち時間は30分である。その内訳は、発表が20分で、複数教師(5名程度)からのコメント時間が10分ほどある。学生の出来不出来は、応答の良さを見ていてわかる。
正直に白状する。「さすが、専門家の大学教員」と思う反面、「このコメントはいかがなものか」と感じることもある。教員側の「コメントのパフォーマンス」を評価するのが、わたしの役割でもある。
学生のプロジェクト(修士レベル)は、教員の誰かが指導を担当している。担当者を「主査」(指導教授)と呼んでいる。教員が約20人だから、平均して2~3人の学生を指導していることになる。わたしは、今年度は6人である(一年生5人、二年生1人)。
プレゼンテーションの善し悪しは、指導者の評価にも連動している。ただし、本日の焦点は、指導者(主査)の評価ではなく、学生に質問したり、意見を述べたり、学生の考えを引き出す、コメントする教員側の「突っ込みのクオリティ」についてである。
学生の発表に対する教員のコメントには、いくつかのタイプがある。そこからは、質問する側の教員が、学生や同僚に対して、教育的にどのように対峙しようとしているのかが、見事に透けて見える。
質問の仕方から、教育に対する態度の違いがわかるのだ。どんなふうな質問があるかを紹介してみる。知らないひとには、なかなか興味深いテーマである。
(1)教員の知識レベルとコメント能力
教員はおしゃべりである。そして、教員の知識レベルと質問の質は、ある意味では関連していると言える。その分野について、ある程度の知識がないと良いコメントはできないからである。
しかし、プロジェクトに取り組んでいる学生が、当面する課題についての一番の専門家である。そうでなければ、新規性のあるプロジェクトなど提案できない。だから、質問する教員は、どちらかといえば、たとえ知っていても、「素人目線」で学生に向かうべきである。
学生の考えを発展させたり、思いもかけなかったようなアイデアを刺激できる教員が、優秀な質問者である。見ていると、コメントが上質な教授は、消費者目線で学生のプロジェクトを攻めている。プロジェクトの成否は、消費者の受容度が決めることが多いからだ。
(2)学生に対する愛情: あるいは、教育者的な配慮
悪い質問者は、学生を叩きのめすような態度で、学生に接する。上から目線の教員に、このタイプが多い。昔から、わたしは彼らを、「ハエたたき教員」と呼んでいる。
ハエたたきをする教員のまずい点は、本人は「食べ物」(悪い課題やアプローチ)にハエが寄り付かないようにしているつもりなのだが、ひっぱたいているうちに、本当にハエ(学生)を殺してしまうことである。皿(テーマ)も、気が付かずにひっくり返してしまっている。少なくとも、かわいそうな学生の心をしぼませてしまう。
不足しているのは、学生や課題(学生が探してきた食べ物)に対して、指導する側として、あるいは見守る側として愛情が不足していることである。何でも知っていると思っている教員に、これが多い。
(3)質問のカテゴリー
上手な質問者は、質問をカテゴリーに分けて迫ってくる。速射砲のように、段階を分けて連射するが、飛んでくる玉の質は同じではない。学生は気をつけるように。
①確認質問:
発表者が「(わざと)あいまい」にしている部分を、よりクリアにするために、全体を部分(パーツ)に分けて確認していく。これは、同室の聴衆に対するサービスにもなる。問題をクリアにしてから、本丸(中心的なj課題)に攻めていく。
②アナロジーの多用
似たような課題や問題を扱った事例を示す。これは、経験豊富な教員に多いタイプである。ただし、自分の経験だけだと狭いので、類似事例や仮説に関連のある論文や書籍を示すことがしばしばである。経験の幅や興味の幅が広い教員から、学生は有益なコメントをもらえる。
③論理矛盾
大学院レベルともなると、学生もかなり勉強はしてくる。だから、いちばんにつかれて痛いところは、自分の発表が論理的に矛盾していることである。この点を突からたときの対処方法である。ここから逃れる唯一の方法は、いったんは白旗をあげて、前提(想定)の少なくともひとつを変えてしまうことである。
④問題(目的)の設定に関して
そもそも、取り組んでいる課題に「新規性」がないと(聞く側からは「興味深くない」)と全否定される。そこをつかれたらおしまいである。昨日は、これに類して質問が二件ほどあった。対処法は、ともかく、社会的なニーズに対して真剣に考え抜いておくことである。
最後は、やや中途半端になった。わたしのゼミ生の指導のやり方を伝授しよう。
1 テーマや課題が定まっていないとき
内容について質問しても、時間が無駄になるので、②の類似事例やケースを羅列する。本当の課題が何なのかについて議論をさせてみる。同僚とブレストさせるのが、いちばんである。
クラスルームだと、彼のテーマの「なぜ」に迫る。本人が本当にやりたいのだとわかれば、その解決法やアプローチを、なるべく具体的に示してあげる。先行事例やよく知っているビジネスを紹介する。できれば、経営者につないであげる。
本人がやりたいテーマなのだから、「やってみたらいい」と、できるだけ肯定的に質問をする。鼓舞してあげる。好きなこと(目的地)をやっていれば、人は良い道を探しだそうと努力する。それを決して苦労だとは思わないものだ。
2 方法を間違えている場合
取り組んでいる課題は良いのだが、アプローチがちがっていることがある。その場合のコメントは、目的や課題と方法の関連を自覚してもらうことである。アプローチは、できるだけ具体的なほうがよい。習熟させるためには、データをいじったり、現場に行くしかない。
問題がはっきりしているので、方法を探すだけだ。これは、先輩たちの悩んだことなので、経験者や技を持っているひとを頼りにする。教育はひとりではできない。だから、わたしは、集団指導を好んでいう。今年の学生で、わたしから教わりたがる子がいる。でも、集団で教育されているうちに、いちばんの手本は同級生や先輩であることがわかってくるはずだ。
3 目標に到達する努力が不足しているとき
わたしの場合は、幸いにしてこうしたケースは一度もない。最終到達点までの時間的に切迫はいつものことだ。大学院に来る学生は、知的能力とモチベーションには問題がない。方法をまちがえさせないことだけに気を配る。本人の能力と技の習熟度によるのだが、この見極めはむずかしい。
残念ながら、目指したところまで到達できなかったひとが、これまで数例はある。ただし、一例を除いて、大学院を卒業はしている。
論文を書いたり、本を書いたりした経験では、「おまえさん、やればできる!」と、いつも激励していれば、なんとかはなるものだ。指導する側に迷いができると、失敗することがある。
だから、いちばん心配なのは、指導者のモチベーションと激励ができない心理状態に陥る危険である。わたしは、超の付く楽観主義者なので、あまりそうしたことは起こらない。
でも、学生指導と大学院の運営はいつもたいへんだ。ひとりも落伍者を出すわけにはいかないからだ。 学生たちへ! 校長としてわたしの任務は、結構きついのだよ。