【訃報】平川賢悦君(能代二中、能代高校の同期生)を悼む

 人工透析について不用意な発言をしたため、番組を降板することになったアナウンサーがいた。能代の友人にもふたり、人工透析患者がいる。そのうちのひとり、平川賢悦君が数日前に亡くなった。昨夜、北羽新報社の八代保編集長から彼の訃報を聞かされた。

 

 一か月前に、「能代二中第20期生同期会のご案内」という葉書が自宅に届いた。二中を卒業してから50年になるが、同期会には一度も出席したことがない。遠いのと忙しいのとで、ちょうど区切りになる「還暦祝い」のときにも同窓会に出られなかった。

 能代のみんなからはその後、「こうすけ、来てくれなくて、残念だった」と地元で言われていたことを家族などから知らされた。わたしは、第20期の生徒会長だったからだ。女性票で当選したのだ。45年ぶりにお礼のあいさつをすべき立場にあったのだが。

 

 ところで、20期生同期会の代表世話人が、平川君だった。彼の実家は電機屋で、進学したのは都立大学だった。いまは校名が変わって首都大学になっている。長男の彼は、私と同じで家業を継がず、卒業と同時に能代市役所に勤務することになった。学生時代から地域の文化活動に熱心で、演劇などをやっていたように記憶している。

 だから、地元に帰って、彼が公務員になったことは別に驚きではなかった。大学院生のあたりまでは、わたしも頻繁に帰省していたが、彼とは地元のお祭りでも顔を合わせることはなかった。同期会にでも出席していれば、顔を見ることできたかもしれない。政治が好きだったはずだから、本来ならば市長選にでも立候補するのではないかと思っていた。

 

 いつごろから腎臓の透析をはじめたのはわからない。先ほど、同期会の案内葉書をくれた近藤登君と話したら、「市役所に務めていたころかららしい」と。政治家は体力が必要だから、人工透析で議員をやるなどはむずかしかったのだろう。事情がわからないが、もうひとりのおもちゃ屋の息子、袴田昌信君も若いころから透析をしていた。

 彼とは一度、道路でばったり会って直接話したことがある。病気の生活は苦しそうだった。近藤君によると、袴田君も昨年すでに亡くなっていた。「3年C組で、女子が三人、男子がひとり、いなくなってるよ」(近藤くん)。

 昭和26年生まれだから、わたしたちは、団塊世代の少し下である。一学年のクラス数は、やや減っていたとはいえ、たしか10クラスくらいはあったはずだ。ひとクラスの人数は、50人くらいだったろうか。3年C組は、そのうちの4人が亡くなっているのだ。8%が低い勝率ではない。

 

 平川君の葬儀は、10月2日午後13時から、皮肉なことに、翌週(9日)の午後17時半から20期生の同期会を予定していた同じ場所「プラザ都」(柳町)で執り行われる。柳町は、むかしとても栄えていた能代のメインストリートだ。地元に残って同期を代表してきた平川くんの葬儀が柳町で行われるのも、何かの縁なのだろう。

 10月9日の同期会は、大学院の入試があって出られない。だが、面接が早くに終われば、飛行機に乗れない時間でもない。同期会は17時半からだが、18時半すぎに会場に到着できれば、皆の顔は眺めることはできる。あとで秋田行きのフライトをチェックしてみるつもりだ。

 「いままで4年にいちどの同期会、次回からは2年に一回にしようかな。日曜日に相談してみるつもりよ」とC組幹事の近藤君は最後に言った。そう、同期会開催のインターバルを4年も空けたら、何人にも「さよなら」を言えないまま、会えにくなるかもしれない。わたしたち昭和26年組は、そんな年になってしまったのだった。