生まれ故郷の秋田県能代市の地元紙に連載を始めて3年近くになります。市民の方や東京に出て働いている方が、『北羽新報』を読んでくださっているようです。今回は、その紙面を借りて悲しい報告をすることになりました。4月1日に実母が事故でなくなりました。
「母を黄泉の国に送る:父母たちが生きた昭和が終わる」
『北羽新報』2019年4月25日号(連載:第33回)
『北羽新報』2019年4月25日号(連載:第33回)
文・小川孔輔(法政大学経営大学院)
個人的なことになりますが、本紙面を借りて、母(小川ワカ)の事故死と葬儀について報告させていただいます。
4月1日の朝5時半ごろ、枕元においてある携帯の電源を入れると、妹の道子から「お母さんが(火事で)亡くなったわよ」とメッセージが残されていました。2歳下の妹は板橋区在住で、勤務医のところに嫁いでいます。母親の認知症が進行してからは、電話で辛抱強くワカさんの聞き役を務めていました。
寝耳に水とはこのことです。エイプリルフールだったので、最初は悪い冗談かと思いました。急いで電話すると、失火による事故死は本当でした。当日はキャンセルできない仕事が2件ありました。茨城県の私立高校で社会科教諭していた弟(次男の晋平君、退職)に、能代の実家に戻ってもらいました。火災事故の後処理、葬儀の準備やお寺の手配などをしてもらうためです。わたしと妹は翌日、秋田新幹線こまち号で帰京することにしました。
4月1日の朝5時半ごろ、枕元においてある携帯の電源を入れると、妹の道子から「お母さんが(火事で)亡くなったわよ」とメッセージが残されていました。2歳下の妹は板橋区在住で、勤務医のところに嫁いでいます。母親の認知症が進行してからは、電話で辛抱強くワカさんの聞き役を務めていました。
寝耳に水とはこのことです。エイプリルフールだったので、最初は悪い冗談かと思いました。急いで電話すると、失火による事故死は本当でした。当日はキャンセルできない仕事が2件ありました。茨城県の私立高校で社会科教諭していた弟(次男の晋平君、退職)に、能代の実家に戻ってもらいました。火災事故の後処理、葬儀の準備やお寺の手配などをしてもらうためです。わたしと妹は翌日、秋田新幹線こまち号で帰京することにしました。
翌日の夕方に、実家で呉服屋を継承している三男の晋佐君を交えて、子供たち4人で葬儀の相談をしました。享年91歳。母は5人兄弟姉妹の4番目で長女でした。末の妹(小川キセ)は健在ですが、3人の兄たちはすでになく、友人や知人のほとんどは母より先に亡くなっています。最後のころは、「誰もいなくなって、寂しい、寂しい」とこぼしていました。
そんなわけで、最初は家族や親類だけの家族葬を計画していました。しかし、妹の道子の強い意見で、「賑やかなことが好きだったお母さんの気持ちを汲んで、立派な葬式にしましょうよ!」と路線変更を決めました。89歳のおばあちゃんの葬儀に、100人近い弔問客が訪れてくれました。全国から花輪も17基ほど届きました。母親にとってうれしい出来事だったと思います。葬儀に参列してくださった方には、この場を借りて御礼を申し上げます。
以下は、長男のわたしが、葬儀の場で述べた親戚代表としての挨拶の要約です。
そんなわけで、最初は家族や親類だけの家族葬を計画していました。しかし、妹の道子の強い意見で、「賑やかなことが好きだったお母さんの気持ちを汲んで、立派な葬式にしましょうよ!」と路線変更を決めました。89歳のおばあちゃんの葬儀に、100人近い弔問客が訪れてくれました。全国から花輪も17基ほど届きました。母親にとってうれしい出来事だったと思います。葬儀に参列してくださった方には、この場を借りて御礼を申し上げます。
以下は、長男のわたしが、葬儀の場で述べた親戚代表としての挨拶の要約です。
* * *
本日は、遠路はるばる、またお忙しい中、母のために葬儀に参列していただき、誠にありがとうございます。37年前に父を亡くしてから、母は女手一つで小川商会を支えてきました。父が生きていたころは借金で苦労していましたし、亡くなってからは弟とふたり商売が大変だったはずです。母は美人で聡明。欠点はやや見栄っ張りなところでしたが、本日は皆さんのご協力で、母が望む立派な葬儀になりました。母も喜んでくれているはずです。
父と母が営んでいた呉服屋は、創業70年。「北高前の小川商会」といえば、能代の人で知らない人はいなかったと思います。商売を続けてこられたのは、地域のお客様と従業員に支えられてのことです。兄弟4人全員が、東京と仙台の大学を無事に卒業できたのは、地元の皆様が小川商会から晴れ着を買ってくださったおかげです。
わたしたち家族・親戚は、仲良しのファミリーだと思います。父と母には、子供が4人、孫が6人、ひ孫が6人おります。全部で16人の子孫を残してくれました。ふたりが良好な家族関係と豊かな家庭を築いてくれたおかげです。
最後に、故郷に心配ごとが二つあります。帰省するたびに思うのは、この街がシャッター街になってしまったことです。しかし、能代は観光と農業という資源を持っています。どちらも未来産業です。いつの日かこの町が再び栄えることを確信しています。二番目は、商売を継いだ弟と親戚が残されていることです。今後とも、小川家のご支援をよろしくお願いします。本日は、母のために集まっていただきありがとうございました。
* * *
本日は、遠路はるばる、またお忙しい中、母のために葬儀に参列していただき、誠にありがとうございます。37年前に父を亡くしてから、母は女手一つで小川商会を支えてきました。父が生きていたころは借金で苦労していましたし、亡くなってからは弟とふたり商売が大変だったはずです。母は美人で聡明。欠点はやや見栄っ張りなところでしたが、本日は皆さんのご協力で、母が望む立派な葬儀になりました。母も喜んでくれているはずです。
父と母が営んでいた呉服屋は、創業70年。「北高前の小川商会」といえば、能代の人で知らない人はいなかったと思います。商売を続けてこられたのは、地域のお客様と従業員に支えられてのことです。兄弟4人全員が、東京と仙台の大学を無事に卒業できたのは、地元の皆様が小川商会から晴れ着を買ってくださったおかげです。
わたしたち家族・親戚は、仲良しのファミリーだと思います。父と母には、子供が4人、孫が6人、ひ孫が6人おります。全部で16人の子孫を残してくれました。ふたりが良好な家族関係と豊かな家庭を築いてくれたおかげです。
最後に、故郷に心配ごとが二つあります。帰省するたびに思うのは、この街がシャッター街になってしまったことです。しかし、能代は観光と農業という資源を持っています。どちらも未来産業です。いつの日かこの町が再び栄えることを確信しています。二番目は、商売を継いだ弟と親戚が残されていることです。今後とも、小川家のご支援をよろしくお願いします。本日は、母のために集まっていただきありがとうございました。
* * *
父と母が歩んできた昭和は、日本経済も成長していました。能代のような地方都市も繁栄していました。どことなく輝かしい時代でした。そして、いま平成が終わろうとしています。昭和が遠くなりました。両親を黄泉の国に送ったいま、大きな時代の節目にいることを強く意識します。昭和とともに能代で暮らし、この町の繁栄に貢献し、わたしたちを育ててくれた先輩たちに感謝します。いまは亡き人たちに、黙とう。