実母の49日、欧州ツアーで出席が叶わず

 母が亡くなって三週間が過ぎた。地元の秋田で火葬と葬儀を終え、母の終活(保険や相続の手続き)は弟の友人に一任して帰ってきた。ここまでは事務処理などで忙しかったので、母親の喪失(この世にいないこと)を考える余裕もなかった。大学のほうも新学期がはじまり、しばし”我を忘れて”いた。

 

 冷静になってみると、母親がいない喪失感に苦しんでいる自分がいることに気がづく。昨夜もそうだった。夜中にふと目が覚めると、はるか昔の旅行や食事で楽しかったことなどを思い出してしまう。近しい肉親を失うことの苦しさは、数年前に妹を亡くした女房の様子を見ていて知っている。

 最近になって両親を失った友人が、「49日が過ぎると、だんだんこたえてくるものですよ」と述懐していた。そんなものかと実感のなかったわたしだが、生活が落ち着いてくると友人の言った意味がよくわかる。

 来月になると、「49日」が待っている。お寺さんの都合もあって、いまのところ、実母ワカさんの49日の法要は、5月25日に設定されている。わたしは、JFMAの欧州ツアーで出席ができない。秋田にいる弟たちに任せてしまうつもりでいる。

 

 試みに、ネットで「49日について」を検索してみた。 

 四十九日の意味
 四十九日とは仏教用語のひとつで、命日から数えて49日目に行う追善法要のことを指します。
 なぜ49日なのかといいますと、仏教では人が亡くなるとあの世で7日毎に極楽浄土へ行けるかの裁判が行われ、その最後の判決の日が49日目となるためです。(七七日[なななぬか・しちなのか]と言われることもあります。)
 従来は裁判が行われる7日毎に法要を行うものとされていましたが、現代では7日ごとに法要を行うのは難しいため、最初の裁判である「初七日(しょなのか)」と、最終裁判にあたる「四十九日」のみ法要を行うというのが一般的になりました。
 その日に、秋田の実家にいないわたしは、どのように過ごすことになるのだろう? 妹や弟たちは法要に隣席することになるのか。親しい肉親の喪失感を消し去るため、「初七日」や「49日」の法要の儀式は存在するのだろう。
 仕事の都合とはいえ、長男のわたしが不在になることについては、いまさらながら微かな罪悪感を抱いてしまう。そうした意識はどこから来るのだろう。罪悪感の背後にある要因は、一体なんなのだろうか。
 37年前に父親が倒れたときと、今月1日の母親の逝去とでは喪失感の質が違っている。49日が過ぎたら、その重さと向き合っていくことになるのだろうか。わたしより先に、両方の親を失ってしまった先輩たちに尋ねてみたい気がする。