東京マラソンの16K地点付近、安田庭園がある交差点の角に東京慰霊堂がある。いまから74年前の3月10日、東京大空襲で亡くなった市民の遺骨が安置されている場所だ。東京大空襲の犠牲者は、8月6日(広島)と9日(長崎)に投下された原子爆弾の死者より数の上では多い。推定で約10万人が犠牲になったとされている。
「推定」と言われているのは、太平洋戦争の混乱期に、亡くなった人の数を正確に知ることができないからだ。
1945年3月当時、東京下町の江東・隅田地区に住んでいた多くの人たちが、B29が投下した焼夷弾の犠牲になった。わたしの周りでも、80歳代前半の老人の中で、戦争孤児が何人かいる。その中には、3月10日の東京大空襲で、両親や親類縁者がまるごと被災して行方がしれないものも含まれるだろう。
本日は、2011年3月11日の東日本大震災から8年目。いまだに行方が知れない被災者が、数千人いると聞いている。8年前に被災したわたしたちの記憶も、年月を経ることでしだいに薄れかけている。震災時の大きな揺れ、TVの映像で見た大津波、劇的な建物の倒壊場面。津波で流されていく自動車や住まい。
あの悲惨な記憶は、NYの「グラウンドゼロ」の特攻アタックに連なっている。わが記憶の中で、計画された攻撃(9.11)と自然災害と人災のミックス(3.11)は、どこか心の深いところでつながっている。自然の怒りと人間的な恨みの感情が生み出したカタストロフィーには、質的にそれほどちがいがない。
3.11の午後、亡くなった多くの人たちに黙とうをささげよう。いまも生きているわたしたちは、単に運が良かっただけだ。