【金沢大地、取材記録】(#1)生い立ちから有機農業参入まで

 先週の訪問先、金沢大地の取材記録を残しておく。井村辰二郎さんの農場(約180ha)は、日本最大の粗放型オーガニック農場である。広告代理店で成功していたビジネスマンが、1997年に有機農業に取り組み始めた。きっかけと理由は?そしていま、農産加工部門に加えて、ワイナリーとレストラン事業に参入することになった。

 

  ご本人は、「自分の事業スタイルは、他の有機農家さんの参考にならないかもしれないですよ」とおっしゃった。しかし、わたしは井村さんの取り組みこそ、日本の農業の未来型だと確信した。取材メモは、12月号の『食品商業』の原稿のために始めたインタビューだったが、井村さんは丸一日を「能登半島の農業ツアー」に費やしてくださった。その親切に応えるためにも、ていねいな取材記録を残しておきたい。
 取材を終わって感じたのは、①先駆者とは実に厳しい生き方を強いられるものだということ。そして、②偶然のチャンスを自らの事業に意図してうまく利用しないと、大義は果たせないのだということ。しかし、それでもなお、井村さんの目指す「千年産業」が実現できるまでは、いまだ道半ばである。
 ちなみに、井村さんの取り組みは、いまわたしが読んでいるデイビッド・モントゴメリー著『土、牛、微生物:文明の衰退を食い止める土の話』(築地書館、2018年)におもしろいように符合している。モントゴメリーの著書の内容紹介は、昨日のブログ(10月30日)で取り上げている。
 
 さて、取材メモでは、つぎのような項目を取り上げていくことにする(本日は、#1)。
 
1.井村辰二郎の履歴(有機農業をはじめるまで)
 井村家の5代目として、第一回の東京オリンピックの1964年に生まれる。獣医大学を目指すも、明治大学農学部に入学。卒業後、IT系の企業に就職が決まっていた。しかし、父親ががんで胃を全摘。次男でありながら、故郷に戻ることを決める。親孝行の次男坊。
 地元の広告代理店(アドマック)に、8年間勤める(22歳~30歳)。その間、ローカルで展開されるデジタル製品のキャンペーンを担当。たとえば、ドコモのムーバー・キャンペーンや七尾電機のEIZOのプロモーションなど。東急エージェンシーやNTTアドが中央で展開している仕事の「ローカル版」を経験する。
 もちろん、井村さんは、北陸でナンバーワンの「代理店の企画営業マン」だった。この経験が、農業分野に参入した後での営業活動に活きることになる。いわゆる「プロジェクト・マネジメント」を20代で経験していた。
 
2 農業者に転業、有機農業をはじめる
 農業は家業だった。30歳で成功してはいたが、うつうつとして代理店業務を続けていた。AE(アカウント・エグゼクティブ)の仕事は、華やかだが人のためにするサポート業務。「自分の仕事がしたい。ならば、家業の農業をやるべき」と考えるようになった。
 そこで、思い立って信頼できる先輩のところに相談にいった。それまで、誰ひとりとして井村さんの転業を支持しなかったが、そのひとだけが「農業を始めるのなら、いますぐに始めたほうがよい」とアドバイスをしてくれた。「米も麦も大豆も、年に一回しか収穫できない。井村君が70歳まで農業を営むとして、あと40回しか経験を積むチャンスが残されていないのだよ。だから、、、」。
 ところで、井村家は、能登半島の付け根にある河北潟で半農半漁を営んでいた。戦後の食糧増産ブームのとき、秋田県の八郎潟干拓のように、河北潟でも大規模な干拓事業がはじまった。しかし、米を増産するために干拓された八郎潟(全国から入植)とはちがって、河北潟干拓地は畑作が中心だった(地元農民の農地を拡張)。
 
3 耕作放棄地を耕すことをミッションとする
 政策的に米は作れないが、本来的には畑作に向かない土地。2000ヘクタールの干拓地のうち、200ヘクタールが耕作放棄地のままに放置されていた。農家の五代目として就農した井村さんが、そのうちの100ヘクタールを10年かけて耕していくことになった。
井村さんいわく、「のちの能登の耕作放棄地を含めて、自分は日本の耕作放棄地の0.03%を復元したことになる」。目標は0.1%だそうだが、本人は有言実行を旨としているから、「それは書かかないでください」とくぎをさされたが、メモには残しておく。
 いまの目標は、放棄された耕作地を復元するのではなく、「放棄される前の未然防止」に取り組むこと。これは、能登の山の中を走っていた時に、盛んに中山間地の場所を見ながら説明してくれた。マイファームの西辻君(家庭菜園として復元する)とは異なり、ご自分が耕す場所を耕作放棄地にならないように、未然に防ぎたい。
 
(*#2に続く)