今回は、法政大学の元同僚、横手高校出身の佐藤展人仁先生(文学部地理学科教授)にご登場をお願いしました。「同じ秋田なのに、先生によって体育のカリキュラムがこれほどちがうものなのか。能代高校は、、(いい加減だった?)」と編集長の八代さんが感嘆されていました。
(その12)「同じ秋田でこんなにちがう!:横手高校と能代高校」
『北羽新報』(2017年7月25日号)
秋田県出身の大学教員が何人いるかは、きちんと調べたことがないのでわかりません。しかし、経験的にわかっていることは、医学部所属の大学教授が比較的たくさんいることです。
秋田県の出身者で経済学・商学系の学部で教員をしているのは、わたしを含んで3人います。佐藤剛先生(グロービス経営大学院)と住谷宏先生(東洋大学)です。3人だけとはちとさみしい感じもしますが、みなさん有名人です。
ところで、わたしが現在所属している法政大学で、秋田県出身の教員は2人です。全学で教員(教授、准教授)は約600人。わずか2人というのは異常に少ない人数です。残念なことは、もう一人の法政大学文学部地理学科・教授の佐藤典人(のりひと)さん(昭和21年生まれ/大仙市神宮寺出身)が、今年3月で退職されました。法政大学の教員の定年は70歳です。秋田出身の法政大学教員はわたし一人だけになってしまいました。
そんなわけで、佐藤先生の退職後に、わたしからの申し出で、「法政大学教員・秋田県人会」を開くことにしました。佐藤さんとは同郷で5つしか年齢が離れていません。郷里の先輩でもあり友人でもあったことで、在任中は大学内のさまざまな場面で親密な協力者でした。ところが不思議なもので、知り合ってから約35年間、お互いの生い立ちや子供のころの話は一度もしたことがなかったのです。
以下は、「ふたり県人会」ではじめて知った話になります。似たような境遇(田舎の進学校で男三人兄弟)に生まれ育ったのですが、横手と能代、それぞれの出身高校での体験はかなり異なるものでした。ちなみに、佐藤典人さん(“てんじんさん”が愛称)は、法政大学硬式野球部の部長を長く務められました。田淵・江川・小早川の時代から連綿と続く「法政スポーツ」の大功労者です。
市ヶ谷駅近くの「鮨(すし)のや」での会食では、予想通りスポーツの話題から入ることになりました。「東京オリンピックのとき(1964年)、お互い何歳だったっけか?」。秋田なまりの質問でわかったことは、佐藤さんがあのときすでに高校生だったことでした。
そこから高校時代の体育の科目に話題が飛びました。「ぼくは、軟式テニスに熱中していたので、それ以外の球技が苦手だったのよ・・・」と佐藤さん。わたしたちの時代、能代高校で体育といえば、サッカーとバレーボールとバスケット。たまに柔道や剣道をやらされましたが、誰が着たかわからない汗くさい柔道着に着替えなければならず、ずいぶんと辟易したことを覚えています。
ところが、横手高校では、体育の時間に球技をやることがほとんどなかったらしいのです。一時期、能代高校は軟式野球が強く、能代工業はバスケットで何年も連続して全国優勝を成し遂げました。それは、それぞれの種目で有能な指導者に恵まれていたからです。
横手高校には、陸上などの分野で優れた競技指導者がいたらしいのです。佐藤さん曰(いわ)く、「春は十種競技、夏から秋までは体操と柔道、冬はスキーになるわけですよ」。十種競技は、ふつうの高等学校ではやらない種目。明らかに、特殊な種目を専門とする体育教員が横手高校に赴任してきたとしか思えないのです。調べてみると、現在のオリンピックで男子の十種競技は、第1日=100m、走幅跳び、砲丸投げ、走高跳び、400m、第2日=110mハードル、円盤投げ、棒高跳び、槍投げ、1500mとなっています。
「砲丸投げとか110mハードルくらいまではよかったけど、いやー、棒高跳には参ったよ。身体が上がっていかないんだもの」。十種競技には“ボール”を使う種目はないのです。その人が後に、名門・野球部の部長に就任して、いまでも地元の新座市で草野球のプレイングマネージャーをやっている。運命とはしごく不思議なものです。
「定年後はどうしていますか?」のわたしの質問に、佐藤さんの帰り際の言葉は、「“サンデー毎日”の暮らしですよ。小川さん」。古い冗談を言わないでくださいよ。まだまだ草野球に励みながら、いつまでも元気でいてくださいね。わたしも佐藤先生を追いかけて5年後には定年を迎えます。そのころまで、フルマラソンを4時間台で走っていることが目標ですから。