(その22)「ワサビが消える日」『北羽新報』(2018年5月26日号)

 連載22回目のコラムは、ふたたび日本固有の在来種の代表選手、和食に欠かせないワサビの話を取り上げました。この原稿は、昨年発表した「日本のタネ、在来種を守る」『大阪農業時報』(2017年7月号)に加筆して、オリジナルの原稿に手をいれたものです。

 

 わたしが最近よく使っている言葉は、「日本はユーラシア大陸の吹き溜まり」という表現です。日本人も人種的には、大陸と海を渡って流れ着いた種族です。もしかすると、ワサビと同じで、アジアに残された絶滅危惧種なのかもしれません。

 そんな多様な植物相をもつことで、わたしたち日本人は独特の料理のレパートリーを抱えるうようになりました。和食のベースにあるのは、そんなワサビのような伝統野菜なのかもしれません。

 このコラムでは、そんなわたしの気持ちを込めて少しだけ書き直してみました。 

 

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「ワサビが消える日」『北羽新報』(2018年5月26日号)

 文・小川孔輔(法政大学経営大学院教授)

 

 岐阜大学に、日本で唯一の「ワサビ」の研究者がいる。彼女は、世界的にもめずらしいワサビの育種家でもある。わたしが会長を務めている日本フローラルマーケティング協会のセミナーで、ワサビの起源や進化など研究の最前線を解説していただいた。3年ほど前のことで、講演のテーマは、「世界から愛される和食に不可欠なワサビの危機」。
 興味深かったのは、和食ブームの中で、ワサビがグローバルにも大切な遺伝資源として注目を浴びていることです。世界中のひとがお寿司を食べるようになり、ワサビの需要は急速に伸びています。北欧の国などでは、現地でワサビの栽培が始まっています。
 山根先生をセミナーにお招きしたのには、研究上の理由がありました。それは、数年前から、江戸野菜をはじめとして各地に残されている在来種に注目しているからです。わたしは、日本の農と食の未来は、在来種の発掘と保存にかかっていると考えています。ワサビもそのような在来種の一つです。和食の素材として日常的に使っているので気がつきませんが、ワサビは「絶滅危惧種」なのです。

 
 いま残されている日本の野菜は、もともと海外から渡ってきたものです。多くのタネは、中国大陸から仏教思想や漢字、農耕具と一緒にもたらされました。そうした野菜は、渡来から数百年の時を経て、日本各地の気候や土壌になじんで、地域の人々の食生活を支えてきました。数年前に世界遺産に指定された和食の伝統は、日本の伝統野菜が育んできたものです。
 なので、在来種には地域名が冠されています。たとえば、加賀野菜、京野菜、江戸東京野菜。江戸野菜の中でも、品目ごとに地域名がついています。練馬大根、谷中生姜、千住葱、小松菜、内藤とうがらしなど。
 ところが、第二次世界大戦後に、日本人が洋風の食事をするようになりました。戦後に普及が始まったファストフードやレストランチェーンでは、動物性のタンパク質や油脂分を主体にしたメニューが中心になります。日本の在来種は、洋食の食材として適していません。
 洋食に使用されるレタスやタマネギなどでは、大量生産や長距離輸送に向いていることもあって、F1種子(交配種)の野菜が採用されました。固定種では、規格化(サイズや形を揃えること)が難しいのです。そして、日本の食卓から在来種が消え、作りやすさと売りやすさが味より優先されてきたわけです。
  ただし、いまこの価値観に転機が訪れています。野菜を例にあげると、「美味しさ」と「鮮度」と「旬」が求められています。この条件に適う野菜は、この40年間でわたしたちが食べてきた品種ではありません。不揃いだが香りが良く、表皮に傷がつきやすいナスだったり大根だったりします。実はそちらのほうが、美味しくて新鮮で健康にもよいのです。

 

 一方で、欠点も多い在来種の復活には課題があります。いちばんのネックは、在来種の野菜を買える場所がないことです。全国各地にある野菜直売所のような場所で、それと知って「在来種の野菜」を販売する仕組みが必要なのです。長距離輸送をしなくてもよい地域物流の社会的なシステムを整備しなくてはなりません。
 日本の未来の食を支えるには、従来とは異なるビジネスを創造する努力が求められています。もしそうした仕組みが生み出せないと、絶滅危惧種に指定されているワサビは、ネアンデルタール人のように、地上から消えてしまうかもしれません。