監訳者あとがき(Discovering Your True North、ビル・ジョージ著)の暫定版が完成しました

 昨日のブログで予告したように、昨年から取り組んでいた翻訳書の「監訳者あとがき」を本日、無事に書き終えることができました。本分も480頁もあるのに、解説まで含んでしまったので、「監訳者あとがき」もかなりの長さになりました。ご勘弁ください。値段は未定です。

 

「監訳者あとがき」

 

 本書は、Bill Georgeが2015年に著したDiscovering Your True North(増補改訂版)の邦訳である。初版の翻訳者、梅津祐良先生(元早稲田大学ビジネススクール教授)が「訳者あとがき」で解説しているように、書名のTrue Northとは、「羅針盤上の真の北の意味で、本物のリーダーを目指す人たちが、そのキャリア開発の旅路において設定する“真の目的”、または“キャリアの究極的な目標”」(303頁)のことを指している。換言すると、本物のリーダーになるための「内なる指針」(=羅針盤)の意味である。
 著者のビル・ジョージは、グローバルに成功を収めている巨大医療機器メーカーのメドトロニック社(本社:スイス)のCEOを16年間務めたあと、自らのリーダーとしての経験を若い世代に伝えようと、教育界に転身したユニークな経歴を持つ経営学者である。ハーバード大学ビジネススクールの教授として教鞭をとる傍ら、これまでにリーダーシップ論について5冊の著作を発表している。そのいずれもが学問的に高い評価を得て、全米のビジネス書ベストセラーに輝いている。

 経営学者としてのビル・ジョージの貢献は、リーダーシップ論の偉大な先駆者であるウォーレン・ベニス(シンシナティ大学元学長)の理念を引き継いで、21世紀のリーダーシップの在り方について、その理想像を根底から覆してしまったことである。20世紀の優れたリーダー像は、ピラミッド組織の頂点に君臨し、自らのカリスマ的なイメージを用いて企業組織を動かす達人である。完璧なキャリアを歩んできた巨人たちは、家庭生活(ワーク・ライフ・バランス)や社会貢献などの視点は埒外に置いて、自らの昇進と彼らの指揮下にある企業の繁栄を求めて一心不乱に働くハードワーカーであった。

 しかし、ビル・ジョージは、そうしたリーダーシップの発揮の仕方では、21世紀の組織はうまく動かすことができないと主張している。2003年のエンロン事件と2008年のリーマンショックは、金銭や名声や権力の獲得に固執するあまり、短期的な利益を追い求めたリーダーたちによってもたらされた歴史的な悲劇である。21世紀の企業社会では、それとは逆のリーダーシップが求められている。
 自らも経営者として苦難の道を歩んできた筆者が提唱しているのは、「完全無欠のスーパーマン」ではなく、「等身大のリーダー像」である。若いころ大きな挫折に遭遇しながら、自らを陶冶して成長してきた人間ほど他人の痛みが分かるものだ。苦難の道を歩んできた人間こそ、本物のリーダーになるために必要な価値観の基軸(トゥルー・ノース)を獲得できる可能性が高い。重要なのは、リーダーとしての先天的な資質や遺伝子ではなく、苦い経験や内省を通して得た学びや気づきなどである。自己を変えていく学習能力とそのプロセスこそが、21世紀型のリーダーにとっては大切である。

 

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 新しい世紀におけるリーダーシップの転換こそが、本書のメインテーマである。この主張を一冊の本にまとまるために、筆者のチームは、初版で125人に、改訂版では追加で47人の経営者にインタビューを試みている。インタビュー対象となった企業経営者や非営利組織のリーダーたちの人生経験(ライフ・ストーリー)を整理して、彼らのリーダーとしての成長プロセスを3つのフェーズに区分している。
 通常のアカデミシャン(大学の研究者)ならば、多くのインタビューを整理したのちに、科学的な手続きに基づき、基本的なキー概念を抽出して事例を抽象化していく。概念整理のプロセスで、科学者という種族は、具体的で人間くさい個別事情は消し去ってしまうものである。ところが、筆者は、科学的な厳格さにこだわることなく、それとは異なる“ナラティブな”アプローチを採用している。「読み手に物語を語り聞かせるような手法」を採用しているのは、未来の若いリーダーたちに向けて、先人たちが歩んできたリーダーとしての個人史を彼らの苦い教訓を交えてリアルに伝えるためである。
 そうした観点からいえば、本書に対して、「科学的な枠組みを大きく逸脱している著作ではないか」との非難を受ける可能性がないわけではない。ただし、厳密な科学者たちからのそうした批判を打ち負かすことができるのは、実務家的な教育者としてのビル・ジョージの実践的な成果が、科学的な考察の厳密さを上回っているからだろう。優れたリーダーシップの実践は、ある種の技術的なスキルの獲得を意味している。そこでは、実践で鍛えられた経営的な技能が重要であり、科学的な手続きの厳密さに優位性はない。

 

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 すでに本書を読み終えてしまった読者には、読後の内容整理のために、いまから読み始める人に向けては手引書を提供する目的で、本書の概要を要約してみたい。

 

 本書は3部から構成されている。本物のリーダーになるべく、未来のリーダーたちは3つのステップを踏んで成長していく。すなわち、<フェーズⅠ>は、リーダーになるための準備段階、<フェーズⅡ>は、リーダーとして経験を積み重ねていく段階、<フェーズⅢ>は、次の世代のリーダーを育てることに貢献する段階である。3部構成のそれぞれのパートが、3つのフェーズに対応している。
 第一部「リーダーシップへの旅」は、リーダーになる準備段階(フェーズⅠ)を扱っている。読者はここで3つの事柄を学ぶことができる。
 1 自分のリーダーとしての意味を理解し、試練や誘惑との向き合い方などを内省することを学ぶ(第一章 人生経験)。
 2 人生の途上で起こる困難や試練に対処するため、踏み外してはいけないことを学習する(第二章 道を失う)。
 3 試練そのものより、試練を乗り越えることで獲得することができる経験(=プロセス)こそが重要であることに気付く(第三章 試練)。

 第二部「本物のリーダーになる」は、5つの章から構成されている。それぞれの章は、真正のリーダーになるために必要とされる5つの要素について、章立てて解説がなされている。
 1 中心にあるのが自己認識で、これは内省と他者からのフィードバックによってもたらされる(第四章 自己認識)。
 2 自分の価値観や行動のための原理・原則を発見して、それを揺るぎないものするための強化の仕方を学ぶ(第五章 価値観)。
 3 自分の最大の強みと動機が交差する場所(スイート・スポット)を見つけるための心構えと方法を知る(第六章 スイート・スポット)。
 4 試練に立ち向かうリーダーにとって不可欠なのが、精神的に支援してくれるサポーターたちである。そのネットワークの大切さを認識する(第七章 サポート・チーム)。
 5 従来のリーダーシップ論が重視してこなかった、個人の生活(ライフ)と公的な仕事(ワーク)を統合させることを大切にすること。そのために必要な心構えはなにかを学ぶ(第八章 公私を統合する人生)。
 第3部「成果を上げるリーダーへ」では、リーダーとしての視点が、「私」から「私たち」に切り替わる転換点を示している。その結果、リーダーにとって必要な目標設定やマネジメントの焦点が大きく変わることになる。
 1 本物のリーダーならば、ある時点から自然に、心の在り方が自分中心(私)から他者(私たち)に切り替わる瞬間が訪れる(第九章 「私」から「私たち」へ)。そして、
 2 リーダーの視点が「私たち」に切り変わったことで、組織全体が共通の目標に向かって動けるようになる(第十章 目標)。
 3 ひとつのチームとして組織を動かすために、リーダーはメンバーが自律的に動けるように権限を委譲するようになる(第十一章 エンパワーメント)。
 4 最後に、現代的な課題である異文化経営で必要とされるグローバル・リーダーシップの役割について議論を重ねる(第十二章 グローバル・リーダーシップ)。

 

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 本書の翻訳を引き受けるには、たくさんの偶然が重なっている。2015年の秋に、生産性出版の村上直子さん(編集担当)から、シリーズで経営学の翻訳書を出したいとの提案をいただいた。その時点では、法政大学イノベーション・マネジメント研究科の同僚である高田朝子先生と、本書の監訳者である小川(孔輔)が、翻訳対象となる“価値のある売れそうな”英文のビジネス書をさがすという約束になっていた。
 ところが、2016年初冬に、村上さんの方から候補となる本が二冊持ち込まれた。そのうちの一冊が本書である。初版から10年で改訂版が出されたばかりだったが、初版の翻訳を担当された梅津先生はすでに他界されていた。わたしが一瞬だけ迷ったのは、リーダーシップ論がわたしの専門領域ではなかったからだった。しかし、偶然にも翻訳をしてみたいという人物が現れた。友人の林麻矢さんである。
 わたしが監訳者として責任をもつことで、翻訳の作業はすぐにスタートすることになった。クイック・スタートのわりに、実際の出版までに約1年半を要してしまった。原稿のアップからこれほど長い時間がかかったのには、いくかの理由がある。訳者の林さんにとっては、本書がご本人にとってはじめての本格的な翻訳作業だった。そのため、海外(中国西安交通大学MBAコース)でマーケティングの講義を担当している夫君(林廣茂氏:元同志社ビジネススクール教授)の助けを借りて、ずいぶんと時間をかけて慎重に本書を訳していった。監訳者のわたしも、各章の下訳が終わるたびに、全文をチェックさせていただいた。元ドクターコースの大学院生だった林廣茂さん(英語の達人)と、慎重にダブルチェックを行っているので、日本語はかなりこなれているはずである。
 さて、翻訳は昨年末には終わっていたのだが、わたしたちが出版社にドラフトを渡してから初校が上がってくるまで、さらに半年の時間を要してしまった。そして、まずいことには、総ページ数が500頁を超えてしまっていた。このことも出版を遅らす原因になった。ボリュームが増えてしまった原因の一部は、原著を読みやすくするために、注釈を各ページの下に横書きで入れるなどの工夫をしたためである。本書を手に取られる読者は、わたしたちがずいぶんとゆったりとしたレイアウトを採用したと感じられるはずである。
 ここで、書籍の単価がアップしてしまった言い訳をひとつ。読者のために個人の経験(ライフ・ストーリー)に照らして本書を読んでもらいたいと考えた著者は、各章末に「演習問題」(個人のリーダーシップに関する質問)を付け加えている。監訳者としては、あまりにも本が厚くなるので、演習は省くつもりでいた。しかし、編集部の意向で、初版でも採用されていた「演習」を結局は採用することに決めた。
 想定される読者に対して、自らの内省を促すためには、演習の掲載は教育的にはよいことだったかもしれない。あるいは、リーダーシップのテキストとして、本書を教室で使用してくださる先生たちには、試験問題を作る手間が省けるだろう。

 

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 最後に、本書に対する感想をふたつ開陳させていただきたい。まずは、ビル・ジョージがインタビューした人物たちと米国の企業文化についてである。
 本書に登場するリーダーは、人生の挫折や困難に対して敢然と立ち向かう英雄たちである。取り上げたほとんどのケースで、彼らは優秀な配偶者や頼りになるメンターに恵まれている。米国の文化は、自立した個人が互恵的な人間関係を結ぶことで、互いの成功を支えあうところに特徴がある。ところが、わたしたち日本の社会では、キャリア形成のための舞台装置と、そこでの人間関係の作り方が米国ほど成熟していない。監訳書としては、日米間での企業文化の違いが、本書のリアリティをすこしばかり損なってしまうのではないかと懸念している。
 二番目は、より個人的な事柄である。わたしは開学から13年間、法政大学経営大学院でマーケティング論の授業を担当している。毎年、春学期の最初の授業で、「わたしの研究活動・社会活動」というタイトルで、研究歴の紹介を兼ねた自己紹介をしている。そのスライドの一枚に、つぎのようなページがある。そのままの形で引用する。パワーポイントの頁タイトルは、「なぜ、マーケティング研究者になったのか?」

 

 ・自らの遺伝子: 農家(母の血筋)と商家(父の血筋)
 ・大学に入学した時点で考え方を改める(天才だらけ!)
 ・マーケティングを専攻することを決める(20歳)
 ・米国留学中(30歳)に、研究者としての20年間を設計した
 ・48歳のときの結論:人生3分割論(25年+25年+25年=75年)
  → 50歳になったら社会活動家に転身することを決意

 

 わたしの研究者としての「人生3分割論」が、まさにビル・ジョージが提唱している3つのフェーズ(Ⅰ リーダーになる準備段階、Ⅱ 経験を積み重ねる段階、Ⅲ 社会に奉仕する段階)そのままなのである。翻訳をしていてそのことに気づいたのは、ある意味で驚きだった。

            2017年7月4日
              小川 孔輔
         (白井市の自宅にて)