偶然の邂逅(かいこう)

 先週、松井さんご夫妻とお会いした。旦那さんの忠三さん(良品計画元会長)とは15年来の知己である。松井さんが雑誌の対談時間に間に合わなくなったおかげで、奥様(珠江さん)ともお話ができた。そして、雑談の中で驚愕の事実がわかった。二度も、マラソン会場で一緒だったのである。



 最初が1996年のホノルルマラソン。わたしが45歳の時である。記録証が手元に残っていないので、正確なところはわからないが、ゴールタイムは5時間30分前後。舐めてかかっての初フルマラソン。結果は悲惨だった。
 午前5時に真っ暗闇の中でのスタート。スタートから4時間を過ぎたころに、気温が30度に上がった。そして、完全にエネルギー切れの状態になった。あとはとぼとぼ歩いてゴールイン。この屈辱が、本格的にマラソンをはじめるきっかけになった。
 なんと、その同じ日、同じホノルルのマラソンコースを、松井さんご夫妻も走っていたのである。奥様の珠江さんによると、「(運動選手だった)松井は自信があったのか、わたしを置いて先に行ったが、わたしに途中で追いつかれた。そのあとは抜いてしまうかどうか?悩んだが、並走することにしました」。
 結局、ご夫婦は同時にゴールイン。タイムは6時間だった。わたしより少し後にゴールしていたことになる。これで、旦那さんの忠三さんは、一生涯、奥様に頭が上がらなくなった。

 わたしが海外マラソンの体験談を話したので、そこから松井夫妻の「ホノルル事件」が暴露されたのだった。ところが、話しているうちに、三年後にまた同じ場所、同じ時間に三人は同じコースを走っていたことが判明した。しかも、このレースでは、偶然にも、三人ともレースを途中で棄権していた。
 日時は、1999年8月1日(日)。レースは、「網走ハーフマラソン」の最後の大会である。レースには関門が二か所あった。ハーフの折り返し地点で1時間以内、ゴール地点で2時間が関門時間だった。その当時は40代のわたしは、ハーフを1時間40分前後で走っていた。よもや中間地点でタイムアウトになるとは思ってもいなかった。
 夏の北海道・オホーツク海沿岸の町での大会だからと、ごく冷涼な気候を想定していた。しかし、スタート時点で気温はすでに30度近くに上がっていた。暑さにからっきし弱い東北人の弱点が出てしまった。10KMを過ぎたところで、大幅にペースダウン。ハーフの手前で、セイコーランナーズの文字盤が1時間を指し示していた。ハーフのレースでは、はじめてのタイムアウトである(フルでは、河口湖マラソンで5時間制限に引っかかったことがあった)。

 以下は、ふたりを代弁しての言いわけである。今朝がた、奥様の珠江さんから、5月にお食事(目黒のミシュラン星付きのレストラン)にご招待をいただいた。その返礼に、ついでに「追伸」を書くため、この日の網走の気温を調べてみたのである。
 
わたしが送った追伸の文章は、以下のようになっている。

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松井さん

追伸です。1999年8月1日(網走、気温)を検索したところ、
次のことが分かりました。(わたしたち)棄権するはずです。

「網走:極値(1999年8月1日)」
 日最低気温:26.4℃
(網走の高い方から第1位の記録 ※統計期間:1890年 5月~2011年5月)
1999年7月下旬~8月は太平洋高気圧の勢力が東日本~北日本にかけ非常に強く、
特に北海道では気温がかなり高くなりました。8月1日は梅雨前線が
サハリン南部から日本海北部を通っていたため、北海道へ非常に暖かい空気が入り、
網走では最高気温が35.5℃、平均気温が29.5度、最低気温も26.4℃と
北海道とは思えないほど暑い日となりました。

小川
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 つまり、気象庁が統計をとりはじめてから、もっとも気温が高い日(最高気温、35.5℃)に、わたしたち三人は網走のハーフを走ったのである。
 実は、去年から網走ハーフは、フルマラソンとして復活することになった。開催日は、9月の最終週の日曜である。昨年は、スケジュールの都合で参加できなかった。松井さんご夫妻と最後の網走ハーフを走ったことを知ったことで、がぜん、今年こそリベンジをしたいと思うようになった。
 第二回の「オホーツク網走マラソン」は、9月25日に開催される。フルマラソンの制限時間は、6時間。松井さんご夫妻の参加は無理だろうな。5KMというのもありますが。