取材のため、上越新幹線で新潟まで(ハードオフ山本善政会長インタビュー)

 ハードオフコーポレーションの山本会長を取材するため、大学院の授業終了後に、上越新幹線で新潟まで。2013年1月9日のインタビューの補足取材になる。明朝10時、新発田市の本社を訪問する。現地でブックオフのFC1~3号店オーナーたちが集合した「うどん屋」の跡地を見ることになっている。



 2014年1月9日に、新橋の事務所で、ハードオフの山本善政会長 と太郎常務をインタビューさせていただいた。
 お願いしたのは、盟友の坂本社長との

 1 はじめての出会い(オーディオショップ時代)、
 2 再会: ブックオフ、ハードオフの共同出店、
 3 いまの坂本孝氏について、

であった。
 
 その後は2人(山本、小川)とも、俺の株式会社の「経営計画発表会」に出席している。なので、「お元気ですか?」と簡単な言葉は交わしているが、紆余曲折あって「俺の履歴書 坂本孝」の執筆は宙に浮いていた。その時の取材記録から、いま振り返ってみて興味深い部分を公開する。

(0)略歴(山本善政氏)
 ・1948年生まれ(坂本さんの8歳下)
 ・新潟県新発田市(旧中条町)出身、電気屋の次男坊
  兄は電気屋を事業継承して、弟(善政氏)がオーディオショップをはじめる
  本人は、24歳で「新潟サウンド北越」を創業している
  → その後の事業展開については、「新潟日報」の連載記事に詳しい

1 初めての出会い(取材メモ)

 ここに一枚目の写真がある。1976年1月29日、東京品川の「PASS研究会」(パイオニアの有料専門店が集まった研究会)の酒豪写真である。年二回開かれていたその会合で、山本さんは坂本会長に会う。
 当時の印象は、自分(28歳)は拓殖大学卒のたたき上げ、坂本さんは慶応ボーイ(36歳)(左から3番目が山本氏、右から2番目が坂本さん)で、当時の坂本さんは、複合店経営(ユアーズ)で斬新な経営をしているという印象だった。このことは、「FC3号店を複合店でオープンするヒントになった」(山本さん)という。

 二枚目の写真は、1995年に「ハードオフ新潟紫筑山店」で集合したときの写真である。昔の仲間が集って、ブックオフのFCになったとき、新発田市(本社)の近くのうどん店で4人(ブックオフFC店)が食事をしている写真である。この場所を、今回訪れることになっている。いずれも、創業したばかりのブックオフの加盟店になった。
 左側から、山本さん本人(サウンド北越:FC3号店)、西澤さん(ハウマッチ、金券ショップ:静岡FC2号店)、佐久間さん(東都商事:FC1号店)、坂本さん(ゆあーず:ブックオフFC本部)が映っている。この4人は、「負け組」の家電ショップなどのオーナーたちである。ブックオフもハードオフも、家電ディスカウンター(ヤマダ、コジマ、ビッグカメラ)に押された地方の家電専門店オーナーたちが集まってはじめたビジネスだった。

 このときの話は、坂本本のオープニングに登場する予定になっている。たとえば、ハードオフは、もともと、「ハードオン」という社名だった。商標登録も済ませていた。それを、ブックオフと共同で事業を始めるために、「オン」を「オフ」にそろえたのだった。
 甲府で商売していた坂本さんは、オーディオショップの失敗で夜逃げをしていた。20年後に山本さんと再会を果たす。山本さんが、「船井総研」の雑誌記事を見て、坂本さんに電話をしたからだった。
 その山本さんは、家電専門店の不振で倒産の危機を何度も迎えていた。起死回生の切り札が、中古ビジネスのハードオフだった。いまは常務となった山本太郎さんとの会話が印象的だった。

 山本会長が、中学校1学生だった太郎君(1980年生まれ)と車を運転していた。坂本さんからは、「フランチャイズの店名をハードオフにしようよ」と提案されていた。
 「太郎、オンとオフとどっちがいい?」(父親、山本会長)
 英語を習い始めたばかりの太郎君は、
 「オフは安っぽくて、よくないよね」
 山本さんは笑いながら、
 「安っぽいか、、、」

 しかし、この瞬間、坂本さんと一緒にする事業なのだから、「オフ」で揃えることに決めた。「中古を扱うこと」にこだわっている自分がわかったからだ。安っぽい?それでいいではないか。そのときのドライブのことを、「迷いが吹っ切れた」と山本会長は私に話してくれた。
 4人とも、生きるために必死だった。負け組のこの結束力が、ハードオフとブックオフの躍進を支えていく。山本会長と坂本社長は、全国各地の元家電量専門店の経営者を回りはじめる。量販店の攻勢で苦しくなった商売人たちを助けるため、中古ビジネスのFC加盟店を進める。