超ローコスト経営のルーツを探る: ハードオフ創業の地を訪問(9月4日)

 新潟に前泊して、昨日は新発田市にあるハードオフの本社にお邪魔した。山本善政会長に、中央通りにあったオーディオショップ創業の地を見せていただいた。旧サウンド北越の本店は、いまは「BAX FUNNY」という名前のブティックに変わっている。店主は、山本さんの昔からの友人である。



 オーナーの名前を聞き忘れたが、60歳の細身の方で、山本会長がその場所を友人に貸している。1Fが15坪だった店を、すぐに階段を設置して二階まで拡張。いまの店(ブティック)は、ショーウインドーも店内の什器も、40年前の創業時とまったく変わっていないという。山本会長は、懐かしそうに二階のオーディオ視聴ルームを案内してくれた。
 帰りの新幹線で、ハードオフの事業を紹介した『究極のローコスト経営』(ダイヤモンド社、2002年)を読んだ。皆木和義さんが著した本によると、「サウンド北越」の創業(1974年)から1991年まで、山本会長は対前年比で売り上げを落としたことがなかった。それが一転して、1991年から事業が思わしくなくなる。1年間で、高級オーディオ市場が5分の一に縮小したのである。
 わたしが高校生の時に、「父親からビクターのオーディオセットを10万円で買ってもらった」と山本さんに話したところ、すぐさま反応が返ってきた。「先生、JBL(米国の高級オーディオモデル)をワンセット売れば、300万円~500万円の売上になったものです」。ちょうど割賦の制度が普及し始めたころで、その波に乗ってサウンド北越は、7店舗で年商15億円まで成長していた。

 ところが、バブルの崩壊や家電ディスカウンターの台頭、オーディオブームも終わってしまったことで、サウンド北越をとりまくビジネス環境は大きく変わった。店主の個人的な努力では、商売を反転させることはできなくなっていた。
 その後に、真逆のビジネスに転換することを決意させたのは、坂本社長(当時、ブックオフ創業2年目)と再会を果たしたことだった。しかし、パイオニアが主宰するPASS仲間(優良オーディオショップ店主会)だった坂本さんに、ブックオフの相模原本社(創業の地)で再び出会うまで、山本さんにはふたつの学びがあった。

 ひとつは、いま店舗を貸しているブティックオーナーの商売だった。女性ものを扱っていたその友人は、リュックを担いで、東京のマンションメーカーを仕入れに回っていた。自分の足で稼いで、小さなメーカーと商売をする。だから、粗利が60%あった。
 サウンド北越本店の真向かいに、その当時は大いに繁盛しているメンズショップがあった。こちらも同じ商店街にある友人の店だった。売り上げは大きかったが、儲かっているようには見えなかった。なぜなら、ワールドなど大手のアパレルメーカーから仕入れるから、最終粗利が低くて、30%程度だった。案の定、新興の専門店チェーンに押されて、5年前にメンズショップは店をたたんでしまった。
 その一方で、ブティックのオーナーは、駅前からいまの場所(サウンド北越の元本社)に移ってきたが、いまだに商売を続けられている。粗利が大きな商売だから、損益分岐点が低い。「厚利少売」なのである。皆木さんの本に出てくる山本さんの造語である。
 ハードオフのビジネスは、ローコスト経営ながら、粗利は67%ほどある。
 「高い利益を獲得するには、大手メーカーから仕入れるのではなく、自分で作らなければならない」(山本さん)。中古品ではあっても、「買い取った商品を自分で手をかけて作る」という発想である。価格決定権を持つ”メーカー”になろうとしたのである。
 それだからではないが、ハードオフの価格設定は、購入者の値ごろ感から入る。本部のコンピュータのデータベースには、数万件の販売価格リストが入力されている。その3分の一が、中古品の「仕入れ価格」になる。ブックオフのように、再販売価格が基準になって、仕入れ価格(10分の一)と売価(2分の一)が決まるのではない。

 ローコスト経営のもうひとつのルーツは、わたしの手元にある一葉の写真である。
 ブックオフのオーナーになった最初の3人(山本さん:FC3号店、西澤さん:FC2号店、佐久間さん:FC1号店)と坂本社長が映っている。背景には、のどかな田園風景が広がっている。その場所は、新発田市の中心部から車で20分ほどのところで、旧赤谷村という部落にあるうどん屋「山水」である。4人が楽しそうに食事をしている写真の右下に、かすかに「95.5.31」という日付けが確認できる。
 ハードオフ(ブックオフを併設)の創業から2年後が経過していた。このころまでに、山本さんは、オーディオショップ「サウンド北越」の6店舗をすべて「ハードオフ」に転換していた。ハードオフのFC店も3店舗になっていた。しかし、そこに至るまでは、苦しい毎日だった。しばしば、新発田から会津街道に沿って車を走らせ、「山水」でうどんを食べるためにここにやって来ていた。黄金色にたわわに実った田圃を眺めながら、自分のビジネスの行く末を考えるためである。
 ハードオフを起業するヒントのひとつが、温泉場の板前さんが独立してはじめたうどん屋の商売だった。ときどき聞く開業の話は、「ローコスト経営」の権化のようなものだった。
 店主は、新発田の町で飲食店を経営して一度店をつぶしていた。なので、まったくお金がなかった。短期間に温泉場で働いて蓄えた開業資金は、わずか7万円。板前さんだから、魚などの高級な食材を使ってもいいようなものだが、資金難だから仕入れができない。しかし、うどんやそばを扱えば粗利は大きい。おそらく原価率は10%以下。実際に、蕎麦屋やうどん屋で破産した話は聞いたことがない。
 うどんのトッピングは、山から採ってきた山菜やキノコが転用できる。自分の趣味みたいなものだから、原価はものすごく低い。
 厨房機器もすべて中古で賄うことにした。全部で5万円もかからない。そして、究極は家賃である。誰も住んでいないような田舎の限界集落である。そうした一軒家の家賃はタダ同然。家を貸してくれる家主は、人が住んでくれるだけで家が傷まないのだから、家賃は無料である。

 これをハードオフの商売に当てはめてみる。
 原価率が低い中古品(リサイクル品)を磨いて、郊外に土地を借りて店を展開する。すべて借り物だから、固定資産に多額の資金を投資することない。その割には粗利が大きいから、3年もあれば投資分はすぐさま回収できる。
 ハードオフの「ローコスト、ハイリターン」の高収益モデルは、うどん屋の商売を見て構想を練ってきたものだった。そして、数年前から中古本を扱っていたブックオフの坂本孝さんと、35年ぶりに相模原で再会を果たすことになる。
 物語はそこから始まるのだが、ハードオフとブックオフは、2005年3月1日、同じ日に東証2部から東証1部に指定替えになる。