「何もしない、宿に旅をする」(@湯どの庵、湯田川温泉)

 7月27日午前11時36分@庄内空港。羽田空港行きのANA398便を待っている。タクシーの到着が早すぎた。時間調整のため、平田牧場が経営しているカフェに入って、アイスコーヒーとポークカレーのランチセットを頼んだ。1160円、暴利だとは思うが、ここしかレストランはない。接客はていねいだから、まあよしとしよう。



 山形の庄内も暑い。埼玉県の熊谷に抜かれるまでは、日本最高気温の記録を保持していたらしい。米どころで盆地だからだろう。
 昨日は、酒田と鶴岡の街を案内していただいたが、道すがら、亀やの阿部公和社長と農協改革の話しになった。米どころとは言っても、庄内でもほとんどが兼業農家だ。このままで米の市場を開放したら、庄内地方の農家はひとたまりもないだろう。
 農協の責任と罪は重い。改革のために残された時間はわずかだ。地方の高級旅館とはいえ、メインの顧客は、地元の金持ちと団体客。農業や商業の成功者たちが得意客なのだ。しかしながら、例えば、お金持の医師たちは、交通網が発達したおかげで直接東京に出てしまう。

 「お金が地元の旅館に落ちなくなってしまったんです。昔なら、冬場の暇な時期に、そんな金持ちの人たちが、家族で3泊から4泊もしてくれていたものです」(阿部さん)
 手をこまねいていれば、客は消えてしまう。新たな施策を繰りださなければ、商売は厳しくなるばかり。だから、15年前に縁あって、立ちいかなくなった湯田川温泉の一軒宿を買収した。
 凝って作った新築の旅館。工事代金の回収に困った知り合いの工務店が持ち込んできた物件だった。早稲田大学を出て世界一周を終え、地元の温泉宿に後継者として戻ってきた。創業200年の老舗旅館を継いだ若き経営者が、最初に手掛けた冒険だった。

 湯どの庵は、14室だけの静かな宿だ。立派に編集された宿のパンフレットは、しばしば初めて逗留する客の期待を裏切ってしまうものだが、この宿に限ってそれはない。墨汁を散らしたような暗がりの中に浮かび上がる玄関先の黒塗りの格子戸は、まちがいなく写真そのものだ。いや、当たり前のことだが、本物は写真以上に本物だ。
 つづくページを飾っている廊下や湯屋や寝室も、仄かな薄灯りの向こう側にシッターを構えたカメラマンが、秘密めかしくややピントをぼかして撮っている。単身での宿泊客のわたしは、想像をたくましくしてしまう。
 もしかして、不倫カップル御用達の宿? 阿部さんには、あえて聞くまでもなかった。当然の答えが帰ってきた。
「先生、子供はNGです」

 小さな宿だから、サービスはシンプルに。宿のグレードを落とさないようにはしたが、それ以外のコストは徹底的に切り詰めてある。例えば、タバコは置かないことにした。
 「20種類置いてあると、21種類目はないの?となる」(阿部さん)
 その代わりに、部屋に置いてある椅子や料理に使っている食器まで売ることにした。
 「宿泊するお部屋が、モデルルームみたいなものですね」とは、わたしの解釈。
 一時期は、家具や器や食材まで、がんがん売れたらしい。

 湯どの庵の従業員は5人。宿泊料金が、一泊ひとり平日で15,375円。休前日が16,950円。カップルで14室が全部埋まれば、月商で約1200万円。年商で約1億5千万円。
 木の材質や壁の塗りにはこだわったが、オペレーションコストは徹底的に削ってある。そもそも、お忍びでくるようなカップルや静かに時を過ごしたい向きには、よけいな接客は必要がないだろう。

 「何もしない、宿に旅をする」
 日常を離れたくつろぎの空間で、優雅な刻を過ごす。(湯どの庵、HPトップページより)

 このコンセプトが当たった。いつも予約で満杯。ただし、それは、東日本大震災が東北地方を襲うまでだった。
 3.11は、好調だった湯どの庵のビジネスを根本から変えてしまう。福島第一の放射能は、山形の日本海側まで飛来したわけではないが、常連客といえど安全を確保したがる。わたしのような東北地方の出身者ならば、山形と福島の距離の遠さはわかる。
 しかし、関東以西に住んでいる人にとって、酒田も山形も仙台も、それから福島も同じエリアにしか認識できはしないのだろう。
 「売り上げが落ちてしまうと、元のレベルまではいけますが、そこからはなかなか上昇できない」

 阿部さんにとっては、新しい挑戦が始まりかけている。まずは、湯どの庵の再興でひとがんばり。亀やでは、今度のような異業種コラボレーションに連続して取り組んでみたい。法政大学小川研究室も、そのオファーを受けている。
 そして、地域のリーダーとして、庄内地方を際だった町に変えていくこと。その中心に自分がいる。また、そうした年齢になっている。
 いま阿部さんは、東京でもイタリア料理店を経営している。山形の仲間との共同経営のレストランがある馬喰横山町は、わたしの乗り換え駅だ。今度は、きちんとお金を払わせてくださいね。ごちそうさまでした。

 <参考>
 「湯田川温泉 湯どの庵」
 〒997-0752
 山形県鶴岡市湯田川乙38 Google Map
  TEL:0235-35-2200
 http://www.kameya-net.com/yudono/