学部生たちが「カラオケの鉄人」と組んで、フィールドワークをしている。今年始まった企業コラボのひとつである。だからというわけではないが、毎晩寝る前に、YouーTubeでカラオケ・サーフィンをしている。おもしろいので、いつも寝つくのが遅くなってしまう。
よく聞いているのは、やしきたかじん(今年の1月逝去)や浜田省吾(61歳)が2000年ごろ作った楽曲だ。
浜田省吾でお気に入りは、「もうひとつの土曜日」「悲しみは雪のように」である。この二曲をいま必死になって、カラオケのレパートリーに加えようとしている。ランナー用のサングラスしかないので、まるメガネのままでマイク練習している(笑)。
学生時代にはブラスバンドに所属していて、トランぺッターだった。音楽の素養がないわけではないが、ピアノは多少引けても、浜省のようにギターは弾けない。風貌も浜田省吾とは似ても似つかない。
当時を振り返ってみれば、わたしは、勉強好きでおとなしめの「かしこい系」に属していた。浜田省吾のような人間は、フォーク・ロックを好みとする「ワイルドな不良系」のグループである。友人のなかには比較的すくない人物である。
もうひとつのグループがあった。ファッション(着飾ること)が大好きな「ジャニーズ系」だった。彼らはきれいめな男子で、秋田などの田舎にはその数は少なかった。18歳で東京に出てきたら、この層はけっこうたくさんいることがわかった。たとえば、麻布・開成・武蔵など、東京の名門私立出の「坊ちゃんグループ」である。
このごろになって、わたしは「かしこい系」のままに、”ちょい悪な”「不良おやじ」の血が混じってきていることに気がついている。その昔は、浜田省吾の歌に共鳴することなどありえなかった。ところが、しだいに生活の中に「お遊びの時間」が忍び込んできて、自身の不良性が高まったからだろう。いつのまにか、暗闇の中でもサングラスを掛ける人の気持ちがわかるようになった。
不良に見えるロック歌手の浜田省吾は、単にシャイなだけだったのだ。他人の視線を浴びて、直に顔を見て覚えられるのがいやなのだった。そのことが理解できるようになって、ある種の世界がわたしにも開けてきた。浜田省吾は、社会人、大学生としては、落ちこぼれだったはずである。
その浜田省吾の歌を聴いてみて、いまさらながらわかったことがあった。わが同世代の女子たちが、彼女らの「男性歌手(スター)への好み」で、明確にクラスター分けできることだった。
そのむかし、わが世代(~10歳下まで)の女性たちの大多数は、男子の好みに関しては、「ワイルドな不良系」と「ジャニーズ系」に分かれていた。ごく少数派が、わたしが属している「かしこい系」を選んでくれた。しかし、女性たちがすきな男子は、数の上では圧倒的に、不良好みとジャニーズ好きが勝っていた。
いまさら、SMAPや嵐のようなポジションはとうてい無理だが、浜省のような「不良っぽいイメージ」の近くには、わたしでもいられるそうだ。マラソンをはじめてからはとくに、心身ともに屈強になっている。その結果なのだが、わたしが好んで選ぶことができる「ターゲット女性」の幅が広がってきた気がする。
幸せなことである。若いころ、浜田省吾は遠い存在だった。しかしいま、彼の心境がなんとなくわかりかけ、サングラスをすることにも抵抗がなくなった。もっとも、実際にはマラソン以外の日常生活では、サングラスで顔を覆っているわけではない。それでも、心と顔にはサングラスをかけているようなものだ。
60歳をすぎて、自己査定をしてみると、どことなく”不良おやじ”になりかけている。不思議な転身である。カラオケサーフィンで、浜田省吾の音楽とそのスタイルを再発見したからである。
ちなみに、元航空幕僚長で、昨年の東京都知事選挙に立候補した田母神さんは、浜省ファンなのだそうだ。カラオケの持ち歌は、「もうひとつの土曜日」である。右翼の元軍人が、好んで”不倫・救援ソング”を歌うのだ!
<参考> (ウイキペディアより)
浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 – )は、広島県竹原市生まれの日本のシンガーソングライター、ロックミュージシャン[1]。O型。広島県立呉三津田高校(野球部所属)卒業、神奈川大学法学部中退。身長170cm。
1975年、愛奴のメンバー(ドラムス)としてプロ・デビュー。デビュー時からサングラスがトレードマーク。1976年にソロ・デビュー。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストである。また、「ロック=英語」という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。
山口百恵、和田アキ子、能瀬慶子、甲斐よしひろ、松田優作、時任三郎、吉田栄作、榊原郁恵、真田広之、烏丸せつこら、ホリプロ所属時代に多くの楽曲を提供している[2][3][4]。
マスコミ等で「浜省・ハマショー」という愛称が使われる事があるが、これに関して本人は快く思っていないと言っている。